親父の言葉通り、梅の花が咲くころ、その女は我が家へやって来た。

白いブラウスに麻のワイドパンツ、髪を後ろでひとつに結んだ、丸顔の女だった。

その爪のネイルは全ての色が違ってカラフルに施されていた。

第一印象はまるでどこかの女子大生。

既婚男性を誑かすような女だから、もっと派手でケバいナリをしてると思っていた俺は、少し拍子抜けした。

女は俺の前に立つと薄化粧の顔でにっこりとほほ笑んだ。

「寺坂みれいと申します。あ、もう鹿内みれいか。弘毅君、これからよろしくね。」

垢抜けない女だと思った。

しかし、その瞳は思ったより柔和で魅力的に見えて、ネコ科の動物を連想させた。

親父もこの瞳にやられてしまったのだろうか、と子供ながらに納得させられた。

俺は仕方なく、渋々頭を下げた。

みれいは恐るべき早さで、家じゅうのものを自分の好みに染めていった。

ナチュラル嗜好なのか、生成りのカーテンにクロスステッチの模様が入ったフランス刺繍のクッションをソファに置き、食事もオーガニックの野菜や調味料をどこからか調達してくる。

壁にはドライフラワーが飾られ、窓辺には名前も知らない観葉植物が置かれた。

着る服もオーガニックコットンのワンピースが多く、胸元が大きく開いたデザインは、俺の目のやり場を困らせた。

なにかと俺の世話を焼きたがり、課外授業のときは無農薬の野菜で作った総菜を入れた弁当を持たせてくれたり、天然素材で出来ているパーカーなどの衣類も買ってくれた。

みれいは黒いシックなワンピースを着て、俺の授業参観を観に来たりもした。

俺がバツの悪い思いで振り向くと、みれいは小さく手を振った。

「恥ずかしいから来なくていいよ。」

俺は家に帰ると、みれいにそう文句を言った。

「あらいいでしょ?私、弘毅君のお母さんなんだから。」

そう嬉しそうに話す姿に、俺もなぜか温かい気持ちになった。

俺がベランダで紅く燃えるような夕日を眺めていると、いつの間にか隣で俺と同じようにベランダの手すりに身を乗り出しているみれいと目が合った。

「弘毅君、私が憎い?」

「・・・・・・。」

「私もね、幼い頃に父を亡くしているの。弘毅君のお父さんは、私の父にちょっと似てるんだ。

だから・・・好きになっちゃった。ごめんね。」

ごめんね、で済まされるようなことではない。

しかしこの女も俺と同じような淋しさを抱えているのだと思うと、少しの同情心が俺の心に沸き上がった。

「ねえ、弘毅君。こう考えてみない?私と弘毅君はきっとどこかで運命の糸が繋がっていたんだと思うの。だからこういう形で家族として出会ったんじゃないかなあ?」

「・・・・・・。」

「だから、仲良くしようよ。ねっ!」

そう言ってみれいは右手を差し出してきた。

俺も恐る恐る手を差し出した。

みれいは親父との仲も良好なようで、穏やかに会話するふたりを見て、他の男を選んだお袋を思い出し、俺は複雑な気持ちを隠せなかった。

でももしかしたら、この女をゆっくりと受け入れられるかもしれない、母親とまではいかなくても家族として一緒に生きていけるかもしれない・・・そんな風に思い始めていた。

みれいの無邪気な笑顔を信じてみよう、そう思った。

そう、あの時までは。








あれは親父が名古屋へ出張に行って家に不在だった真夏の夜のことだった。

真っ暗な窓の外からは、少し早い虫の音が響いていた。

俺は机に向かって国語の予習をしていた。

教科書には島崎藤村の詩である「初恋」が載っていた。

「やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に 人こそ初めしはじめなり」

俺は女を好きになったことがない。

だから恋という感情もわからない。

けれど・・・もしも俺の未来に恋をするなんてことがあるのなら、この詩のような恋をしてみたい。

「君が白い手でやさしく林檎、秋に色づき始めたばかりの林檎の薄紅色のその実を与えてくれたその時が、私は人を恋した最初の時であった」

ノートに「初恋」の現代語訳を書き連ねながら、漠然とそう思った。

予習も終わり、野球部での練習の疲れも重なり、ベッドに横になるといつの間にかうたた寝をしていた。

ふと気が付くと、目の前にみれいの顔があった。

俺はねぼけていたこともあって夢かと思った。

その顔は俺が初めて見る、女の顔のみれいだった。

みれいの吐く息は、親父がいつも飲むウイスキーの匂いがした。

「弘毅くん。」

「・・・なに?」

「勉強してたんだよね?眠気覚ましのコーヒー持って来たよ。」

「あ・・・どうもありがとう。」

俺はみれいがわざわざ入れてくれたコーヒーを飲もうと思い、身体を起こした。

しかしみれいは、いきなり俺のベッドに膝を乗せた。

「ねえ。遊ぼ?」

「・・・は?」

「気持ちいいことしない?とっても楽しいこと!弘毅君のお父さんも喜んでくれるんだよ?」

その瞬間、みれいの唇が、俺の唇に押し付けられた。

俺はみれいを跳ね飛ばした。

「何すんだよ!」

しかしみれい・・・その女は、再び俺のベッドの上に乗った。

みれいの服装はゆるキャラが描かれた白いTシャツに太腿まで見えるデニムのホットパンツを履き、長い髪を下ろしていた。

初めての口づけは、好きな女とすると信じていた自分の想いに、こんな形で奪われてしまってから初めて気づいた。

薬を盛られたわけでも、紐で手足を縛られたわけでもないのに、俺の身体は身動きがとれなくなった。

何より信じかけていた人間に裏切られたショックで、心が粉々に砕け散った。

「弘毅君ってお父さんよりカッコイイね。弘毅君の方が私のパパに似てるかも。」

「どけよ!」

「弘毅君・・・もしかしてファーストキスだった?」

「・・・・・・なわけないだろ」

「その反応、可愛い。ね、もっといいことしない?」

女は俺の股間に手を当てた。

「やめろっ!」

「そう言っているわりには、反応しているよ?ここ。」

「っ・・・・」

俺は固くなった自分のそれに、愕然とした。

流れに流されるまま、俺の血流はどくどくと音を立てた。

エアコンからは冷たい風が吹いているはずなのに、俺の身体は熱くなり、汗が止まらなかった。

「ふふっ。今お母さんが愛してあげるからね。」

その行為に、初めての情動が体中を貫いた。

それはむず痒いような、脳内がイカれてしまったような、不思議な感覚だった。

冷めきった心と頭、それとは裏腹に快感を覚えている身体。

「もっと仲良くしよ?」

女は俺の身体の上に覆いかぶさった。

「い、いやだ・・・お願いだから、やめてくれ・・・」

「大丈夫。最後まではしないから。」

「俺はアンタの父親の代わりなんかじゃないっ」

「そんなこと、わかってる。」

その女はなんの罪悪感も見せずに、妖しい笑顔を見せた。

女はしつこく俺の身体をまさぐり、抱きついてきた。

「やめろよっ!」

俺は身体が震え、吐き気で死にそうになった。

「ねえ、弘毅君て童貞・・・だよね?」

「・・・・・・。」

「私が奪ってあげたいけど、仮にも親子だもんね。残念。」

「・・・・・・。」

耐えきれないような時間が過ぎ、ふいにみれいは俺の身体から離れた。

荒い息の音だけが、俺の部屋の空気を震わせていた。

「・・・これは弘毅君と私だけの秘密だよ?」

悪魔の顔をしたその女は軽くそう言うと、もう用はないとでも言うように部屋を出ていった。

俺の身体と唇が、あんな女に烙印を押されたかと思うと悔しくてたまらなかった。

何が「愛してあげる」だ。

そうやって自分の欲望を一方的にぶつけることが、お前にとっての「愛」なのか?

みれいに触られた汚れを落としたくて、俺はすぐに浴室へ駆け込み、全身をシャワーで洗い流した。

あの女は生まれながらの淫乱なのだ。

ただその時の欲望に従って生きている、動物のような女なのだ。

そしてそんな女の相手をしてしまった俺は動物以下に成り下がったのだ。

俺はもうなにもかもが嫌になった。

家に帰ればあの女がいる。

息苦しい。

家に帰りたくない。

あんな女の顔など二度と見たくない。

俺はただその一心で夜の街をさまようようになった。