俺はガキの頃から、女という生き物に好かれた。

いや、執着されたというべきなのかもしれない。

女が猫なら、俺はまたたび、とでもいおうか。

幼い頃はおままごとなどという退屈な遊戯にしょっちゅう参加させられた。

それは小学生、そして中学生になっても続き、恋文という名の稚拙な手紙や、調理実習で作ったというクソまずいクッキーなどを複数の女から押し付けられた。

当然のごとく同性のクラスメートからは嫉妬され、体操服を隠されたり、下駄箱の中が汚されていたりと、俺にとっては馬鹿馬鹿しいとしか思えないような嫌がらせを受けたりした。

しかしそれを黙って耐えている俺ではない。

主犯格のクラスメートを力で倒すと、嫌がらせの仲間たちは、すぐに俺から手を引いた。

・・・そんなことよりも俺には深い悩みがあった。


小学生時代は親父とお袋、そして一人っ子の俺の3人で仲睦まじく、祝日には外出したり飯を食ったりするような、ごくごく平凡で幸せな家族だった。

産まれてから一番最初の記憶はなにかと聞かれたら、俺は迷わずこう答えるだろう。

鼻先にそばかすがあり、子犬のように濡れた眼を眩しそうに目を細めながら微笑む、お袋の笑顔だ、と。

幼い頃から俺は、小柄で陽気でコロコロとよく笑うお袋が大好きで、いつもお袋のエプロンの裾にしがみつき、まとわりついていた。

そんな俺をお袋はいつも抱き上げて、舞台で踊るミュージカルスターのようにくるくると回ってみせた。

その機敏な動きは家事をする時にも表れていて、素早く洗濯物を干し終えたと思ったら、庭に植えたハーブの手入れをし、美味しい手作りの食事を作ってくれた。

夜中、目が覚めて淋しくなると、お袋の姿を家じゅう探し回った。

「お母さん!いた!」

そう呼びかけると、お袋は決まってこう俺に優しく答えてくれた。

「なあに?弘ちゃん。また眠れなくなっちゃったの?しょうがない子ね。」

そう言って俺を抱き上げて布団まで運び、俺が再び眠るまで絵本を読んでくれた。

それは「桃太郎」「鶴の恩返し」といった日本の昔話から、「裸の王様」「アラジンと魔法のランプ」などアンデルセン童話やディズニー絵本まで多岐にわたり、お袋の少しハスキーでゆっくりと語りかけるような声を聞きながら、俺は安心して眠りについた。

特に俺のお気に入りの絵本は「100万回生きたねこ」だった。

そこに出てくる白猫はお袋だと思った。

そして俺はトラ猫と白猫の間に産まれた幸せな子猫、なのだと思っていた。

親父は学生の頃にやっていた野球を息子にも教えたがり、休みの日には広い公園でよくキャッチボールをしてくれた。

小学校3年生の時に買ってもらった誕生日プレゼントのグローブは俺の宝物となった。



しかし俺が中学に入ったころから、親父とお袋の会話が極端に減った。

親父の帰りは日に日に遅くなり、家に帰ってこない日も増えていった。

以前は野球の話をしてくれた親父が、「勉強しろ」としか言わなくなった。

そしてついに家族間での会話さえなくなっていった。

多感な年頃の俺には、親父の変化の理由がすぐにわかった。

親父は外に女が出来たのだ。

端的にいうと会社の部下の女と不倫していた。

度重なる外泊、親父のワイシャツに付いたピンク色のルージュの痕、甘い香水の残り香がそれを如実に物語っていた。

お袋は、親父の関心をとり戻そうと躍起になっていた。

少なくとも俺にはそう見えていた。

化粧を濃くしてみたり、老舗デパートで流行の服を買い漁ってみたり、豪華な食事を作るために料理教室へ通ってもいた。

しかしその努力が、家庭の再生という実を結ぶことはなかった。

初め、お袋はその努力の結果を俺に求める様になった。

「弘毅、この服どう思う?お母さんにはちょっと派手かなあ?」

「この味付け、弘ちゃんどう?美味しい?」

「まあ!中間テストで10位以内に入ったの?さすがは私の息子ね。

ママ友に自慢しちゃおうかしら?」

俺はお袋の言葉に最初はひとつひとつ丁寧に返事をしていた。

しかしお袋は俺の返事など何も聞いてはいなかった。

ただ自分が喋りたいことを、喋りたいときに、発信しているだけだった。

それは鏡に向かって話しかける、白雪姫に出てくる女王さながらだった。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」とでも言うように。

俺は魔法の鏡なんかじゃない。

次第に俺は、お袋に耳あたりの良い言葉を捧げることを止めた。

そうするとお袋は、その対象を外へ求めたようだった。

外出が増え、家のことをおざなりにし、次第に家の中は散らかり放題となり、食事もスーパーの出来合いの総菜ばかりになった。

俺はなんとか家庭を建て直そうと、不器用ながらも掃除や洗濯をし、簡単な食事を作ったりもした。

親父とお袋が元に戻って欲しくて、俺のことをちゃんと見て欲しくて、勉強も部活動での野球も全力で頑張った。

テストの成績は少なくとも学年で上位10位以内に入るようになり、部活でも区大会のベスト4に進出して、両親に報告できるような結果を残していった。

けれど、ある日突然、お袋は家から姿を消した。

結局、俺の努力の全部は空回りに終わった。

もちろん俺はお袋を探し回った。

親戚の家や、お袋の知り合いの家、とにかく思い当たるところ全てに連絡を取って、必死にお袋の行方を追った。

しかしその痕跡はどこにもなく、俺は途方にくれた。

それでも俺はお袋を信じていた。

俺を置いて、ひとりでどこかへ行くはずなどないと。

すぐに俺を迎えにきてくれるはずだと。

それから間もなく、親父が俺に突然、話があるとリビングの椅子に座るよう促した。

親父は真面目な顔で俺に告げた。

「弘毅。お父さんは再婚することに決めた。」

いきなりの急展開に、俺は絶句し、その後父を責めた。

「は?お袋はどうするんだよ!親父はちゃんとお袋を探したのかよ!」

俺の激高した抗議にも、親父は冷静な態度を崩さなかった。

「俺だって俺なりに美津子のことを探したさ。」

そしてテーブルの上に、A4判の白い封筒を俺の前に投げるように置いた。

その封筒には興信所の名前が印刷されていた。

「中を見てみろ。」

親父に促されて、俺はその封筒の中にある何枚もの用紙を恐る恐る抜き取った。

そこには今現在のお袋が住んでいる住所や同居人の名前、その行動に関する調査報告が書かれてあった。

そして数枚の写真も同封されていた。

その写真には俺の知らない男と、俺が見たことのないような顔で微笑んでいるお袋の姿が写っていた。

少しの沈黙のあと、親父は事務的に言った。

「美津子にはもう離婚届を送ってある。まったく手間をかけさせやがって。」

親父はそう吐き出すように言うと、苦々しい顔でその写真を指ではじいた。

俺は椅子から立ち上がり、親父の胸ぐらを掴んで叫んだ。

「元はと言えば、てめえが不倫なんかしたからだろーが!!このクソ親父!!」

「冷静になれ。元々美津子はこういう女なんだ。優しくされればどんな男にもホイホイと付いて行く尻軽女だったんだ。その写真に写っている男とも、もう十数年ほどの長い付き合いだったらしい。俺がなにもしていなくたって、きっと結果は同じだったよ。俺の方がよっぽど先に美津子から裏切られていたんだ。だから俺は美津子にそのきっかけを作ってやっただけだ。」

「・・・どういうことだ?」

「だからそういうことだよ。」

つまりお袋の方が先に不倫していたということか?

「どいつもこいつも、ふざけんな!」

俺はその興信所の紙を部屋中にまき散らした。

そんな俺を冷たいまなざしで見ながら、親父はいとも簡単に言った。

「こんなことになって弘毅、お前には申し訳ないと思っている。

でももう決めたことなんだ。

入籍はもう少し後になるが、お前の新しい母さんになる女性は2か月後に我が家へ来る。

お前ももう中学生だ。小さな子供じゃない。広い心を持って新しい母親となる女性をこの家に迎え入れて欲しい。この通りだ。」

そう言って親父は頭を下げ、形だけの謝罪をしてみせた。

そんなこと、到底受け入れられるはずがなかった。

俺はあとでこっそりその興信所の調査書を自室へ持ち込み、今現在お袋が住んでいるという住所を確認した。

そして俺はそこへ直接行ってみることにした。

お袋本人に会ってみなければ、親父の言葉やその調査書を信じることは出来ない。

家の最寄りの駅から、電車の路線をふたつ乗り換えて五つ目の小さな駅のホームに降りた。

都内の最も東寄りにあるE区に、そのボロアパートはあった。

ところどころ月日の劣化で読みづらかったが、汚い文字で「たつみ荘」と書かれている看板が目印となった。

サビだらけの手すりと階段。鬱蒼と蔦が絡まった外壁。欠けたブロック塀。

今どき珍しいほどの昭和初期に建てられたような木造アパートだ。

きしむ階段を、わざと大きな音を立てて上がり、203号と書かれた扉をガンガンと打ち鳴らした。

しばらく待つと、唐突にその扉は開かれた。

俺の前に、白いタンクトップと派手な柄のステテコ一枚を履いた屈強な中年男が現れた。

「・・・・・・。」

言葉を失って何もしゃべらない俺に、男は言った。

「新聞なら取らねえし、宗教も間に合っているよ。」

確かに、興信所の封筒の中に入っていた写真の、お袋と一緒に写っていた男だった。

「俺は・・・鹿内美津子の息子です。お袋に会わせて下さい。」

絞り出すような声でそれだけを告げた。

男はしばらく俺の顔を無表情に眺めていたが、くるりと部屋の方へ振り向くと

「おーい。美津子。お前の息子が会いに来たぞ!」

と呑気な口調でお袋を呼んだ。

しばらく待つと、肌の露出もあらわな服を着たお袋が、玄関口に現れた。

そのいでたちに、家で俺に手作りのオムライスを作ってくれた貞淑さはなかった。

「弘毅・・・。どうしてここに・・・?」

「母さん。俺こそどうしてって言いたいよ。何でこんなところへいるんだ?俺と家に戻ろう。

話し合えば父さんだってきっとわかってくれる。まだ間に合うはずだ。」

俺はお袋の白くて細い手首を握った。

しかしお袋は、握りしめた俺の手を振り払った。

「もうあそこへは戻らない。お母さん、そう決めたの。

お母さんはこれからこの人と生きていくことにしたの。」

お袋は屈強なステテコ男に目くばせしながら、男の顔色を伺うようにそう言った。

男は無精ひげを生やし、厭世的な雰囲気を漂わせた色男だった。


線が細く生真面目なだけが取り柄の親父とは正反対な男だった。

「母さん!戻って来てくれよ!お願いだから・・・」

なおも縋り付こうとする俺を、お袋はほんの少しの憐憫と隠し切れない迷惑な気持ちを混ぜ合わせたような表情をしてみつめた。そして、持っていた財布から一万札を抜き取り、俺の手に握らせた。

「弘毅・・・ごめん・・・本当にごめんね。でもお母さん、あの家にいたら狂ってしまう。

お父さんは私のことなんて随分前から愛していなかった。もうずっと。弘毅がいたから何とか夫婦をやっていたけれど、あの女が現れてから、お父さんは仮面をかぶることを止めたのよ。

だからもうお父さん・・・あの人とは生きていけない。」

「俺のことは・・・」

どうするの?という言葉は怖くて口に出せなかった。

しかしその答えを、お袋は明確に言葉にした。

「弘毅はお父さんの側にいてあげて。そしてもうここへは二度と来ないで頂戴。

弘毅ももう中学生なんだから、それくらい判るわよね?」

それだけ言い終わると、なんの未練もないように、その粗末なドアをバタンと閉めて、俺を外に追い出した。

冷たい北風が俺の頬をなぞった。

俺は、実の母親に、今、捨てられた。

それもたった一万円で。

今までの楽しかった思い出も、会話も、笑顔も、全て消去されたのだと俺はそのときそう悟った。

お袋の俺への愛は、たった今、消滅した。

それとも最初からお袋には俺への愛などなかったのかもしれない。

涙は出なかった。

ただ心にぽっかりと大きくて暗く深い穴が開いた。