高校3年の秋。

もう大学受験の競争はスタートしていた。

俺はなんとか信二の家に招かれたいと思っていた。

信二は両親ともに40代の時に生まれた恥かきっ子だと、特に自虐をいう風でもなく教えてくれた。信二の兄山本健太郎は両親が22歳の時の子供だから、信二とつぐみの父親である山本健太郎とは干支で言うとほぼ2周くらい離れているという。

「兄貴と言うより第二の父親みたいな人なんだよな。」

信二は兄の山本健太郎のことをそう表現した。

「だっておれが生まれたとき、兄貴はもう成人していたんだぜ?

兄貴を産んでお袋と親父は、もう二人目を産むつもりはなかったらしいんだけどさ。

まあ出来ちまったもんは産むしかないってことで、超高齢出産。

だから親父もお袋も、もう爺さん婆さんだよ。」

「俺も両親が35歳の時の子供だから、今はもう50後半だぜ。

大して変わらないよ。」

俺は信二を励ますように言った。

「いや!もう年金が貰えちゃう歳だぞ?

今のところは両親ともに心身健康で、親父もまだ現役で働いているからいいけどさ。」

信二の両親は、つぐみの祖父母ということだ。

きっとつぐみは祖父母にも目にいれても痛くないほど、可愛がられていることだろう。

そしてたまには祖父母家族に会いに、信二の家に行くこともあるに違いない。

俺の知らないつぐみの世界を覗いてみたい、と思った。

また単純に、信二と言う男が、どんな家で暮らしているのかを見てみたい気もしていた。

ある日俺は古典が苦手だという信二に、一緒に勉強してくれないかと誘われた。

学校の近くにある図書館へ行ったが、生憎勉強スペースである机に空きはなかった。

「どうする?信二。近くのファミレスでも行くか?あそこなら何時間でも長居できるぜ?」

俺の提案に信二は難色を示した。

「うーん。ファミレスだと食欲を優先してしまうんだよな。ハンバーグセットにチョコレートパフェ。

ああ、目移りする。」

「ドリンクバーの飲み物だけで我慢しろよ。」

「それが出来たら苦労しないってーの!ほら、食物が俺の腹に入りたいと叫んでいる。」

「お前が単に食物を食いたいと叫んでいるだけだろ?」

漫才のようなやりとりをした後、ふと気づいた。

これは信二の家を訪ねることが出来る絶好のチャンスなのではないだろうかと。

俺はなにげなくこうつぶやいた。

「俺は伯父の家に居候している身だから、部屋に呼べないのが残念なんだけど・・・。」

これは嘘ではないが、真実を述べているわけでもなかった。

信二には俺の両親がすでに離婚していること、そして具体的な理由までは述べなかったが、今は伯父の家に住んでいることを伝えてあった。

信二は皆まで言わなくてもいい、というように俺の話に頷いてくれた。

たしかに俺は居候の身であるから友人を部屋に呼ぶのは気後れするが、だからと言って伯父や陽平が文句をいう可能性はゼロに近かった。

陽平もしょっちゅう女を家に連れ込んでいるし、弘毅もたまには友人を家に呼んで来いよと言われることもあるくらいだ。

中学生のときは何人か友人を部屋に招いたこともある。

しかしその友人たちが、俺の読んでいる本や飾ってあるプラモデル、部屋にかかっているカーテンの色まで、俺に興味があるクラスの女子に話していることを知って友人を部屋に招くことを一切止めた。

別に見られて困るものは部屋に置いていないが、かなり憂鬱な気分になったものだ。

そんなこともあって、俺は自分のパーソナルスペースを、他人に見られるのが怖くなった。

だからインスタで自室を撮った写真はもちろん、食ったものや行ったところなど、自分のプライベートを晒す人間の行動が理解できない。

そんな俺が信二やつぐみのプライベートを見たいなんておこがましいにも程があるが、そんな俺の矜持を覆すほどに、つぐみの世界を共有したいという思いが強かった。

さて、信二は俺の言葉にどう反応するか?

思った通り、信二は俺の予想通りの答えを発してくれた。

「そうだ!なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう?弘毅、今から家に来ないか?

俺の部屋で勉強しよう。お袋が煩いかもしれないけど、そんなのは無視しとけばいいから。」

「いいのか?迷惑なんじゃ・・・」

「こっちこそ散らかっている部屋で大丈夫か?弘毅は潔癖なところがあるからな。」

「いや・・・それは全然問題ないけど。」

こうして俺は初めて信二の家の門をくぐることになった。

俺は道すがらケーキを買っていくことにした。

信二の家族、しいてはつぐみの祖父母に少しでも気に入られたかった。

「弘毅、そんなに気を使うなよ。たかが勉強しに来るだけだろ?」

「俺が食いたいんだよ。頭を使うには糖分が必要だからな。」

「そうか?じゃあ俺はモンブランがいいな!お袋はチーズケーキが好きなんだよ。」

「もちろん俺に奢らせてくれよ?」

「そうか?じゃあ遠慮なく。」

少しだけ罪悪感があったが、人の行動の裏を読まない、こういう信二の性格が有難かった。

信二の家は高校の最寄駅から直通で4駅先にあった。

黒い瓦屋根に白い壁、庭には松の木が植えてある、純和風な造りの家だった。

格子戸を開け飛び石を渡り玄関を上がると、長い年季の入った木造の廊下に障子張りの部屋がある、平屋の家の中に入った。

信二は玄関に入るなり、すぐの障子張りの扉を開き、いつもの大声を出した。

「ただいま!母さん、今日友達呼んでるから、部屋にお茶持ってきてくれよな!」

部屋の中ではサザエさんの家のちゃぶ台みたいなテーブルでノートに向かって考え込んでいるお団子頭の初老といっていいような女が、ずり落ちそうな眼鏡を直しながら信二の方を見た。

「ウチのお袋、今、俳句にハマっているんだよ。暇さえあれば5・7・5で話しかけてくるんだ。」

信二が内緒話をするようにコッソリと俺に告げる。

「お帰り!あらまあ。『イケメン君・どうして信二と・お友達。』」

「ほらな?始まったよ。」

信二の母親が立ち上がったので、俺はすぐさま深くお辞儀をし、持っていた白いケーキの箱を差し出した。

「信二君にはいつもお世話になっている鹿内弘毅と申します。今日は突然お邪魔してしまって申し訳ありません。これ、つまらない物ですが、良かったら食べて下さい。」

「まあ、なんだか求婚者みたいに礼儀正しい挨拶ね。ありがとう。このケーキ、美味しく頂くわ。あとで信二の部屋にも持っていくから、待ってなさい。」

「母さん、俺はモンブランがいい。」

「お客さん優先よ。えーと鹿内君だったわね?アナタ、どのケーキがいい?」

箱の中にはチーズケーキとモンブラン、チョコレートケーキにショートケーキが所狭しと詰められていた。

信二がモンブランで、信二の母親はチーズケーキ。

残りはショートケーキとチョコレートケーキだ。

信二の父親はどちらが好みなのだろうか?

俺はどっちでも構わないけれど・・・。

そう熟考していると信二が助け舟を出してくれた。

「ウチの父さん,イチゴが苦手なんだよ。ほら、イチゴってたまに甘くなくて酸っぱいのもあるだろ?甘いと思って食べたものが酸っぱいとショックなんだってさ。」

「ほんと、味に煩くて困っちゃう」

信二の母親は、そんなことはもう慣れっこだというように、肩をすくめた。

そうなると俺の言うべき言葉はひとつだった。

「俺はショートケーキをお願いします。」

俺はイチゴが好きだ。逆に酸っぱいと思っていたイチゴが甘かったら二倍嬉しいではないか。

「了解よ。じゃあ部屋で待っていてね。」

俺の返答を聞いた信二の母はすぐさま立ち上がり、キッチンの方へ向かっていった。

リビングの棚には沢山の家族写真がフォトフレームに飾られており、その中のひとつに、中学生くらいの女の子が、紺色の清楚なワンピースを着て、生きているのが楽しくて仕方がないというように満面の笑顔をしている写真があった。

その写真がつぐみだということは、すぐに解った。

あの笑顔を歪めた、つぐみを連れ去ろうとしたという犯人の男が憎い。

男だというだけで、そんな卑劣な野郎と一緒にされるなんて、理不尽で納得できなかった。

「俺の部屋、2階。さ、行こうぜ。」

そう促され、俺は信二の後ろについて、階段を上った。

信二の部屋は畳に扉がふすまの和室で、思っていたよりかなり散らかっていた。

空のペットボトルや食べかけのポテトチップスなどの菓子が散乱している。

俺の部屋は極力モノを置かないようにしているため、殺風景だがそれなりに整理整頓した状態をキープしている。

だから信二の部屋の汚さには若干引いたが、男の部屋なんてこんなものか、とも思った。

信二は小さな折り畳み式のテーブルを広げ、床に散らかった衣類や雑誌をベッドの上に放り投げていった。

俺達はカバンの中から古典の教科書と問題集を出して、古文単語の意味をお互いに問い、答え合わせを行っていった。

しばらくすると信二の母が丸い木のお盆にお茶と、さっき手渡したケーキを皿に乗せて部屋に入ってきた。

「信二。お茶いれたよ。」

「そこに置いといて。」

「はいはい。ごゆっくり。勉強頑張ってね。」

俺には手に入れられなかった、こんな普通の会話が出来る親子関係を羨ましいと思った。

こういう健全な家庭に、信二のような男が育つのだろう。

俺達は勉強の手を止めて、お茶を飲み、ケーキを頬張った。

ゆっくりと信二の部屋を見渡すと、本棚にはマガジン系の少年漫画の単行本が詰め込まれていた。それらは主に熱血スポーツものが多く、あとは少々のベストセラー小説と参考書などが見受けられた。

一番下の大きな棚に、場違いな絵本がたてかけられてあったのを見つけた。

ごんぎつねやよだかの星、かわいそうなぞう、など、結末が悲しい本ばかりだ。

「信二も、絵本なんて読むんだ?」

俺がその絵本のひとつを引き抜いて信二に渡すと、信二は懐かしそうな顔をしてその絵本のページをめくった。

「これはつぐみが小さい頃、読み聞かせてやった絵本。これらを読むとつぐみのヤツ、大粒の涙をポロポロ流してさ。持っていると泣いちゃうから信二兄ちゃんにあげるってさ。」

「・・・ふーん。つぐみちゃん、泣き虫なんだな。」

「いや、普段は怒られても絶対に泣かない子なんだけど、こういう物語に弱いんだよな。

感情移入しちゃうんだ。きっと。」

つぐみは心優しい女の子なんだな。改めてそう思った。

「あ、でも一冊だけ自分のウチに持って帰った絵本があったんだよな。たしか・・・百万回がどうとかいう絵本だったと思うんだけど。」

「百万回生きたねこ?」

「そうそう!そんな名前の絵本だった。なんだかとても気になる本だからって自分の家に持って帰ったよ。」

「・・・・・・。」

百万回生きたねこは百万回生死を繰り返しても、誰ひとり好きになれなかった猫が、自分を見向きもしない白い猫に恋をして、一緒に生きて、やがて死んでいくという物語だ。

俺がまだ小さなガキだった頃、一番のお気に入りだった絵本。

つぐみは百万回生きたねこを読んで、何を思ったのだろう?

恋するという感情をまだ知らない少女に、その絵本は何を与えたのだろう?