「ミーナと一緒に行きたいところがあるんだ」


 アーネスト様からそう言われたのは、麗らかな春のある日のことだった。
 純白の美しいドレスを着せられ、誘われるがまま彼の後に続く。そこには一台の馬車が停まっていた。


「乗って、ミーナ」


 アーネスト様の手を取り、わたしは馬車へと乗り込む。


「一体、どこへ行くのですか?」


 尋ねると、アーネスト様は人差し指をそっと立てて微笑む。内緒、ということらしい。聞いても教えてくれそうにないので、入内以来初めての外出を楽しむことにした。


「もしかしてこれ、お忍びって奴ですか?」


 皇帝が乗るにしては随分質素な馬車に、お供はほんの数人だけ。精鋭揃いではあるけど、公式なお出掛けにしては警備が軽すぎる。


「そうだよ」


 アーネスト様はそう言って穏やかに笑う。


「良いんですか? こんな風に城を抜け出して」


 答えの代わりに、アーネスト様はわたしの頬に優しく口づける。
 別に、明確な答えを求めていたわけじゃないけど、何だか色々と誤魔化されている気がする。言えば、アーネスト様は声を上げて笑った。


 二時間程馬車に揺られて辿り着いたのは、小さな街の中にある、小さな小さな教会だった。古い建物で、所々壁のペンキが剥がれ落ちているものの、敷地内には草花が綺麗に咲き誇っている。

 アーネスト様は躊躇うことなく扉を開けた。中は比較的綺麗に整備され、ステンドグラスから色とりどりの光が射し込む。


(あれ……?)


 何でだろう。わたしはこの光景に見覚えがあった。
 首を傾げて眺めていると、アーネスト様がわたしの手をギュッと握る。彼は穏やかに目を細めつつ、わたしのことを見つめた。


「ミーナ、俺達が初めて出会った場所だよ」


 驚きに目を見開く。


(そっか……)


 ここはわたしが生まれ育った街だ。

 幼い頃、食べ物が何も見つからない時に、わたしはこの教会を訪れていた。運が良ければ司祭様に食べ物を分けてもらえる。
 だけど、碌に整備されていない古い教会だし、街には困っている人が溢れていた。だから、毎回貰えるというわけではない。

 初めて会ったあの日、わたしは極限までお腹を空かせていた。そんなわたしを、アーネスト様が救い出してくれたのだ。


「アーネスト様は……わたしのことを覚えていて下さったんですね」


 言いながら、涙が滲む。
 死に戻り、初めて会話を交わした時に、アーネスト様はわたしの名前を尋ねた。彼はきっとわたしを覚えていないのだろうと、そう思っていたのだけど。


「絶対に忘れないでねってお願いしたのは、俺の方だよ?」


 そう言ってアーネスト様はわたしのことを抱き締める。途端に胸に熱いものが込み上げてきた。
 毒にうなされながら見た、アーネスト様と交わした約束の光景。あれは正真正銘、わたし自身の記憶だったのだ。


「だけど、どうして? 覚えていたなら、どうして再会したあの時、わたしの名前をお尋ねになったんですか?」


 そう尋ねると、アーネスト様は少しだけバツの悪い表情を浮かべる。


「ミーナが……俺がつけた名前を今でも大事にしてくれていると良いなぁって」

「――――そんなの、当然じゃありませんか! わたしは……アーネスト様がつけてくださったこの名前は、わたしの心の拠り所だったんですから」


 アーネスト様とわたしを繋ぐ、確かなもの。それは、彼がつけてくれた『ミーナ』という名前だった。
 どんなに離れていても、己の名前を口にするだけで、アーネスト様の存在を感じられる。「頑張れ」って言っていただいことを思い出し、ここまで生きてこれたのだ。


(どうしよう……)


 嬉しすぎて涙が出てくる。こんなことがあって良いのだろうか――――アーネスト様と再会してからずっと、わたしはそんなことを思っている気がする。

 彼のために働けるだけで、幸せだと思っていた。顔を見られずとも、それで構わないって思っていた。
 それなのに、気が付けばアーネスト様は、こんなにもわたしの近くに居る。


「約束だよ、ミーナ」


 そう言ってアーネスト様は目を細めて笑い、夜会の夜と同じ金剛石のティアラをわたしの頭の上に載せる。真っ白なドレスと金剛石が、ステンドグラスに照らされて、キラキラと美しい輝きを放っている。

 アーネスト様は跪き、それからわたしをまじまじと見上げた。息が止まってしまいそうな程、心臓がドキドキと鳴り響いている。繋がれた手のひらがとても熱い。触れたところから、眼差しから、アーネスト様の想いが伝わってくるような心地がする。


「ミーナ……俺のお嫁さんになってくれる?」


 アーネスト様はそう言って、満面の笑みを浮かべた。


「わっ――――わたしはもう、アーネスト様の妃なのに」


 言いながら、涙がポロポロ零れ落ちる。

 わたし達を縛る契約は既に無くなってしまった。
 アーネスト様は無事だし、妃の元に通っているフリをする必要だってもうない。

 けれどわたしは、これから先も妃として、アーネスト様の側に居る。そう誓ったというのに。


(こんな風に求めていただけるなんて、思ってなかった)


 幸せで――――幸せ過ぎて、笑みが零れる。アーネスト様は穏やかに微笑むと、わたしの両手をしっかり繋いだ。


「今の俺達は皇帝でも妃でもないよ。一人の男として、俺は今ここに居る。俺はミーナと結婚したい。ミーナを幸せにしたいんだ」


 真剣な眼差しがわたしを見つめる。
 妃というのは役職だ。皇帝にとっての配偶者ではあるけれど、それはアーネスト様にとっての『お嫁さん』の定義とは違うのだろう。


(だからアーネスト様は、わたしを城から連れ出してくれたんだ)


 本当の意味でわたしをアーネスト様のお嫁さんにするために――――そう思うと、心が喜びに打ち震える。


「お嫁さんは――――アーネスト様とずっと一緒に居られるんですよね?」


 あの日アーネスト様から聞いた『お嫁さん』の定義を、わたしは言葉にして確認する。


「うん。ずっとずっと、一緒だよ」


 アーネスト様はそう言って、泣きそうな表情で笑った。
 跪いたままのアーネスト様の胸に飛び込み、力いっぱい彼のことを抱き締める。アーネスト様はそんなわたしを、しっかりと受け止めてくれた。

 春の風が草花の香りをそっと運ぶ。温かな香りだった。世界中の幸せを凝縮したような、そんな感覚がわたしを包む。

 承諾の意を以て交わされた口付け――――それは、わたしたちが結んだ、新たな契約の証だ。


「愛してるよ、ミーナ」


 誓いの言葉を口にして、アーネスト様は笑う。その表情は、本当にビックリするぐらい幸せそうで。
 わたしも、彼に呼応するように、満面の笑みを浮かべたのだった。