(なんで……一体どうして、こんなことに?)


 冷たい石畳の上に跪き、自問自答を繰り返す。麻布で覆われているため、視界は暗闇に包まれている。けれど、わたしの脳裏には一人の男性の姿が浮かび上がっていた。

 皇帝――――アーネスト陛下。
 この国の頂点にして、最後の皇族。

 そんな彼をわたしが殺した――――。


(いいえ、違う)


 わたしはただ、彼に食事を運んだだけ。殺そうなんてそんなこと、考える筈がない。
 だけど彼は、わたしが運んだ食事を口にした瞬間、血を吐いた。藻掻き苦しみ、そしてそのまま亡くなってしまった。

 だからわたしはここにいる。
 衆人環視の元、命を以て、彼を殺したその罪を償おうとしている。

 思い返せば酷い人生だった。
 名も与えられぬまま街を彷徨い、数年を過ごした。本当に血反吐を吐くような毎日だった。だから、死ぬこと自体はあまり怖くない。

 だけど、そんなわたしに名前を与え、救いあげてくれた人がいた。わたしはただ、彼の想いに報いたかっただけなのに。

 背後から足音が聞こえる。死刑執行人の足音だ。重たい斧を引き摺り、わたしの首元を見つめている。


(もしも戻れるなら――――)


 わたしはあの人を救えるだろうか? 真犯人を見つけ出し、幼いあの日、わたしのことを救ってくれたあの人を――――アーネスト様を、死なせずに済むだろうか。


(神様……)


 風が空気を切る鋭い音が聞こえる。息を止め、わたしは身を強張らせた。ギュッと目を強く瞑ったためか、視界が明滅し、真っ白に染まる。



(……あれ?)


 おかしい。待てど暮らせど痛みはない。死とはこういうものなのだろうか。そう思うけど、身体を押さえつけられたことで生じた痛みも、重みも、瞳を覆う麻布の感触すらも、いつの間にか無くなっている。わたしは恐る恐る目を開けた。


(ここは……?)


 奇妙なことに、辺りにはわたしを取り囲んでいるはずの観衆も、死刑執行人も、誰もいない。第一、先程までわたしが居たはずの場所と、ここはひどく離れた場所にある。


 金剛宮。


 後宮にある四つの殿舎の内の一つだ。
 アーネスト様の即位から一年経った今も、未だ妃が不在なこの場所で、わたしは宮女の一人として働いていた。アーネスト様が亡くなったのも、この殿舎の一室である。


「一体、何がどうなっているの……?」


 そんな言葉が口を吐く。けれど、悠長にしている暇はない。今ならわたしの身体を拘束する人間も、わたしを見ている人間すら誰もいない。逃げるなら今だ。

 だけど、わたしは立ち止まった。

 逃げたところで行く当てなんて何処にもない。やりたいことも、何も無くなってしまった。
 それに、わたし自身がアーネスト様を殺したわけじゃないけれど、死ぬキッカケを作ったことは間違いない。


(今から処刑場に戻って、それから――――)


 そう思っていたその時、背後から足音が聞こえた。ビクリと身体を震わせ、振り返る。するとそこには、信じられない人物が立っていた。


「陛、下……?」


 目を見開き、わたしは呆然と立ち尽くす。そこには亡くなった筈のアーネスト様が立っていた。


(なんで? どうして?)


 アーネスト様は確かに亡くなった筈だった。口から血を吐き、苦し気に藻掻く彼の姿が、わたしの脳裏に鮮明に焼き付いている。騎士たちに拘束されながら、陛下は既に息を引き取ったと、医師が言うのを確かに聞いた。

 それなのに、今のアーネスト様はまるで何事も無かったかのように、美しく凛々しい姿のまま、わたしの前に佇んでいる。


「君は……」

「そこのおまえっ!」


 アーネスト様が口を開きかけたと同時に、彼の後ろに控えていた一人の男性がわたしに向かって声を荒げた。呆気にとられながら、わたしは男性を見つめる。男性はそのままわたしの頭を鷲掴みにしたかと思うと、グン、と下に押し向けた。


「このお方をどなたと心得る! 明日、この帝国の主となられる、アーネスト陛下だぞ!」

「…………え?」


 心臓が変な音を立てて鳴り響く。


(おかしい。明らかに、おかしなことが起こっている)


 第一に、わたしがアーネスト様の殺人犯だってことは、城内で知らない者はいない。見つかれば当然捕らえられる。その筈だった。だけど、目の前の男性はそのことについて何も言及しない。

 第二に、目の前には生きたアーネスト様が居る。殺されたのが影武者で、彼が実は生きていた、ってだけなら別に良い。

 だけど、圧倒的におかしなことがある。アーネスト様は今から『一年前』に皇帝に即位した。明日即位する、なんてそんなのあり得ない。


(一体何が起こっているの?)


 時系列が狂っている。いや、わたし自身が狂っているんだろうか? アーネスト様の死が悲しすぎて、おかしくなってしまったのかもしれない。夢を見ているのかも――――彼が即位する前日に巻き戻る――――そんな自分に都合のいい夢を。


「ギデオン、女の子にそんな手荒い真似をするんじゃない」


 そう口にしたのはアーネスト様だった。彼はゆっくりとわたしの元へ歩み寄り、そっと顔を上げさせる。目の前に優しい笑顔が飛び込んできて、胸がじわりと温かくなった。


「生きて……いらっしゃったんですね?」


 何がどうなってこんなことになったのかは分からない。だけど、わたしはその事実が嬉しかった。アーネスト様のことを見つめながら、密かに涙を流す。すると彼は、少しだけ目を丸くして、わたしの肩を掴んだ。


「陛下……申し訳ございません。何分、今回の代替わりに合わせて後宮の職員も入れ替わったばかりでして。教育については、ちゃんと女官長に申しつけます」


 ライオンみたいな風貌の男性がそう言う。わたしのことを押さえつけた男性だ。
 茶色がかった金髪に、鋭い目つき。灰色の、中に虹彩が見える不思議な瞳をしていた。格好良いと称される風貌なのに、なんとなく怖い……そんな印象を受ける。


「そうか。――――でもその前に、俺はこの子と二人きりで話がしたい」

「はっ……しかし」

「俺が話をしたいと言っている。おまえ達は下がれ」


 アーネスト様がきっぱり言うと、男性は怪訝な表情をしつつ、頭を下げる。アーネスト様の側に控えていた騎士や文官たちの姿が一人、また一人と消えていく。最後まで残っていたライオン男は眉間に皺を寄せてわたしを睨んだ後、クルリと踵を返した。



「さてと」


 アーネスト様は全員がいなくなったのを確認すると、改めてわたしへと向き直る。


(もしかして、わたしが死なせてしまったのは、アーネスト様の影武者だった?)


 一瞬だけそんなことを考えたけど、絶対に違う。

 お日様の光を集めたみたいに綺麗な金髪に、空色の瞳。一度見たら決して忘れられない、格別に美しい顔立ちの人だった。こんな人、この世に二人といやしない。あの日毒に倒れたのも、今この場に居るのも、アーネスト様に間違いなかった。


「君も覚えているんだね」


 その時、アーネスト様が徐に口を開いた。風が優しく頬を撫でる。


「俺が――――死んだことを」


 その瞬間、わたしは目を見開いた。心臓がバクバク鳴り響いている。


「そっ……それって、まさか……!」

「うん。俺は一度死んだはずだった。君が持ってきた食事を口にして、そのまま死んだ。目の前が真っ暗になって、痛みも苦しみも無くなった。
だけど、気が付いたら俺は生き返っていた。目を開けた瞬間、君が目の前にいた。正直言ってまだ混乱している。
だけど、ギデオンのセリフから察するに、今日は俺が皇帝として即位する前日らしいね」


 アーネスト様は一つ一つ、今のご自分が置かれた状況を言葉にしていく。こんがらがった頭の中が、少しだけ整理されていくような心地がした。


「わっ……わたし! わたしも死んだはずだったんです! 陛下の殺人犯として拘束されて、処刑された筈が、気が付いたらここにいて……!」

「うん。――――どうやら俺達は、やり直すチャンスを与えられたみたいだね。それが誰のお蔭か、分からないけど」


 やり直し――――。心の中で呟きながら、わたしはアーネスト様を見つめる。

 俄かには信じがたい話だけど、今、アーネスト様が生きてわたしの前にいることが何よりの証拠だ。コクリと小さく頷きつつ、意を決して口を開く。


「だけど、陛下――――あなたを殺した犯人はわたしじゃありません! 毒を盛った人間は他に存在する。真犯人は別の誰かです! どうか……どうか二度目の人生では殺されないで。きっと、生き抜いてください!」


 きっと、アーネスト様はわたしを生かしてはおかない。未来で自分を殺すと分かっている人間をそのままにするなんて、わたしならしない。


(でも、わたしは満足だ)


 アーネスト様はご自分が殺されたことを覚えているし、これからは警戒を強化するだろう。きっと、二度目の人生ではむざむざと殺されはしない。わたしはそっと両手を彼の前に差し出し、頭を垂れる。


「――――一体、何をしているの?」


 アーネスト様は目を丸くし、わたしのことを怪訝な表情で見つめる。


「……拘束、なさるのでしょう? 牢屋に連れていかれるんじゃないんですか?」

「しないよ。だって、君は犯人じゃないんだろう?」


 今度はわたしが目を丸くする番だった。
 正直、信じてもらえるなんて、一ミリも思っていなかった。生きたまま牢屋に入れられるのが一番ラッキーなパターンで、きっと人知れず殺されるんだろうって思っていたから。


「だけど、そうだね……一つだけ、お願いがあるんだ」


 アーネスト様はそう言って、わたしの手を握った。その途端、頬が一気に熱を持つ。わたしは首を傾げながら「なんでしょう?」と、そう尋ねた。


「君に俺の妃になって欲しいんだ」