「クリスティーナ! 起きてるの⁉」



 下から、ヒステリーなエメリーンの叫び声が聞こえてきた。早く仕事をしろと急かしているのだろう。

 わたしは急いで顔を洗うと、屋根裏部屋から出て、梯子を伝って二階へ降りる。

 すると、梯子の下ではエメリーンが腰に手を当てて仁王立ちをしていた。



「なんてみすぼらしい格好をしているの! 早く着替えなさい‼ 城へ行かなくてはいけないのよ⁉」



 城? そんな話は聞いていない。

 朝から登城しろとはいったいどんな急用なのだろうか。

驚いて目をしばたたいている間に、エメリーンの命令でメイドが三人、わたしの手を引いた。

 屋根裏部屋とは別に、わたしを外に出すときのためだけに使う「お着換え部屋」へ連行される。



「雪がちらついておりますが、寒くはございませんでしたか?」



 そう言って、メイドの一人がわたしの手を取って、おやと首をひねった。冷たく氷のような手を想像したのだろう。魔法で部屋の中を温かくしていたから寒くなかったとは言えず、わたしは一言「大丈夫よ」とだけ伝えておいた。

 メイドはホッとしたように胸をなでおろして、手早くわたしのボロっちいメイド服をはぎ取る。

 この家の使用人たちはとても優しい。いつもわたしが虐げられているのを見て、「お可哀そうに」と顔を曇らせる。母が生きていたころから働いている古参の使用人も多いので、事情を知っている彼女たちはわたしが物語の「灰かぶり姫」のようにでも見えるのだろうか。

 雪が降っていて寒いから、クリーム色の厚めの生地のドレスを着させられ、少しパサついている金髪にオイルを塗って艶をだし、サイドを編み込んでから一つにまとめられた。



「まだなの⁉」



 扉の外で、エメリーンが甲高い声で叫んでいる。

 メイドたちは眉を寄せて、わたしの顔に薄く化粧を施すと、「本当はもっと完璧に仕上げたかったんですけど」と悔しそうな顔をした。



「充分よ、ありがとう」



 わたしが部屋から出て行くと、待ち構えていたエメリーンが怒鳴った。



「さっさと馬車に乗りなさい! 約束の時間に遅れてしまうじゃないの!」



 だったら事前に伝えておけばいいじゃない、とは思っても口にはできなかった。

本当に、そんなに急いでいるなんて、何の呼び出しなのかしら。

 不思議に思いつつも急かされるままに馬車に乗り込むと、馬車の中にはすでに派手に着飾ったアンジェリカが座っていた。



「もう、お姉様ったら早くしてよね。わたしまで遅刻しちゃうじゃない」



 わたしの顔を見るなり文句を言うが、その表情はびっくりするほど上機嫌だった。

 何かいいことがあったのだろう。

 もしかしたら、帝国に嫁ぐ日取りが決まったのかもしれない。帝国で女神のように崇め奉られる自分を想像してはうっとりしていたから、嬉しくて仕方がないのだろう。



「急いで頂戴!」



 雪は積もっていないけれど道は凍っているかもしれなくて、そんな中で馬車のスピードを出すのは危険なはずなのに、エメリーンは御者にそう命じる。

 これで約束の時間とやらに遅れたらすべて御者の責任にされるだろうから、彼は青くなって馬の尻を鞭で叩いた。

 ガタンと大きく揺れて、馬車が走り出す。

 御者の頑張りもあって城まで早くたどり着いたけれど、馬車がスリップ事故を起こさないだろうかと不安で仕方がなかったわたしは、到着したころにはすっかり疲れてしまっていた。



 城に到着したわたしたちは、なぜかそのまま謁見室へ案内される。

 緋色の絨毯が敷かれた長い廊下を進んで謁見室にたどり着くと、広い室内にはすでに父ゲイリーと、それから王太子ジェラルドの姿があった。奥の玉座には国王陛下が座っている。

 ゲイリーはわたしを素通りして、アンジェリカとエメリーンに視線を向けた。

 ジェラルドはわたしを見たけれど、すぐに興味なさそうに視線を逸らされた。



 ……まあ、婚約者とはいえ、ジェラルドがわたしに微笑みかけたことなんて一度もないけどね。



 わたしも笑わないのだから、人のことをとやかく言えた義理ではないけれど。

 わたしもジェラルドから視線を外して、玉座の国王陛下に深く一礼する。

 エメリーンも腰を折って一礼したけれど、アンジェリカは聖女は国王よりも偉いと勘違いしているのか、小さく会釈したきりだった。

 陛下は難しい顔をして、わたしとアンジェリカを見つめたあとで、大きく嘆息した。



「クリスティーナ・アシュバートン。王太子ジェラルドとの婚約を解消し、そなたに我が国の聖女と認める。春を待って、帝国の使者とともにマクシミリアン皇帝へ嫁ぐように」

「…………え?」



 わたしは思わずポカンとしてしまった。

 今、陛下は何と言っただろうか?

 驚いて二の句が継げないわたしに、ジェラルドが嘆息しつつ言った。



「クリスティーナ。聖女が帝国に嫁ぐのは知っているだろう?」

「……はい、それは……」

「だが、アンジェリカは帝国に嫁ぎたくないそうだのだ」



 は?

 今、何を言ったのかしら、この王太子は?

 茫然とするわたしをよそに、話は続けられる。



「アンジェリカは帝国に嫁ぐのではなく、私の妃となってゆくゆくはこの国の王妃になりたいと、そう言っている」



 ちょっと待ってほしい。そんな我儘が通るのだろうか。

 わたしはくらくらと眩暈を覚えた。

 ジェラルドの表情から見るに、アンジェリカのその申し出を、彼は歓迎しているようだった。



 考えてみれば、ジェラルドは野心家な男で、独立を認められてはいるものの帝国の属国のような扱いを受けているこの現状を、いつか打破してやるのだと言って憚らない男だった。

 帝国が強大なのは聖女を娶っているからだと、ジェラルドはそう信じきっている。

 聖女を奪えば帝国の国力がそげると本気で思っているのだろうから、アンジェリカが帝国ではなく自分に嫁ぎたいと言ったのは、彼にとって願ったりだったのだろうけど。

 ジェラルドは失念している。

 聖女がいてなお、フィサリア国は四百年前、ソヴェルト帝国に戦争で負けているのだ。それで、国の存続を認める代わりに聖女を嫁がせるという約束をさせられたのに、アンジェリカを手元に置いて何になるだろう。



 だがそれを指摘しても、ジェラルドの機嫌を損ねるだけだ。

 わたしは心の中でこっそり嘆息しつつ、なるほどだからわたしを代わりの聖女に仕立て上げるつもりなのかとあきれた。

 聖女が本物かそうでないかなど、帝国には判ずる手段はない。

 聖女かそうでないかは、世界で唯一「聖王の泉」が判ずることができるのだから、「聖王の泉」のないソヴェルト帝国では、それを確かめるのは不可能なのだ。



 アンジェリカは勝ち誇ったような笑みを浮かべてわたしを見ている。

 アンジェリカに甘いゲイリーも異を唱える様子はない。――いや。もともとこうなることを、知っていたとしか思えなかった。

 馬鹿馬鹿しいほどの茶番劇。

 この場で知らなかったのはおそらく、わたしだけだ。

 異を唱えることも、許されない。

 わたしはゆっくり瞼を伏せて、それから深く腰を落として一礼した。



「……承知いたしました」



 アンジェリカのかわりに帝国へ送る。

 わたしの意思をよそにそれが決定事項になっている現状で、抵抗したところで、わたしにはもうこのフィサリア国に居場所はない。

 ならば最後の矜持とばかりに、微笑んで受ければいいだろう。

 父から「余計なことは喋るな」と命令されて以来、はじめて浮かべた微笑み。

 ジェラルドが瞠目したのがわかったけれど、そんなに驚くようなものだろうか。

 わたしは人形ではなく人間なのだから、笑うことくらいできるのだ。



 そのあと陛下から何かを言われた気がするけれど、あまりはっきり覚えていない。たぶん、ねぎらいの言葉か何かだったのだろう。

 父から先に帰っていいと言われたので、わたしは一人、乗ってきた馬車に乗り込んだ。

 アンジェリカやエメリーンは、まだ城に用があるらしい。

 馬車に座ると、わたしは一人なのをいいことに、はあーっと声を出してため息をついた。

 馬鹿馬鹿しいったらない。そんな馬鹿馬鹿しい茶番に付き合わなくてはならないわたしも、やっぱり馬鹿馬鹿しい。



「やっぱり、嫌なことがあった」



 雪の日は、わたしと相性が悪いらしい。

 でもさすがに、これだけのことがあったのだから、今日の不幸は終わりだろう。

 そう油断していたわたしはこのあと、馬車の事故に巻き込まれて気を失うことになり――、まさかそれで前世の記憶を取り戻すことになるとは、露ほどにも思わなかった。