セラフィーナはフィサリア国からの手紙を読んで、赤い唇をにんまりと持ち上げた。

 あの若輩者の皇帝は、まさかセラフィーナとフィサリア国が頻繁に情報のやり取りをしているとは気が付いていないだろう。

 マクシミリアンはこざかしい男だが、まだ二十三歳になったばかりの青二才。倍以上生きているセラフィーナの足元にも及ばない。



 ――長かった。ようやくここまでこぎつけた。



 思えば、「聖女」としてソヴェルト帝国に嫁ぐことが決まったときから、セラフィーナの戦いははじまっていたのだ。

 愚かなソヴェルト帝国の人間は知らないだろうが、ここ四百年余り、フィサリア国で聖女が誕生したためしはない。いるのは「聖女」に仕立て上げられた女たちだけだ。――聖王の泉を光らせることができた、アンジェリカ以外は。

 本物の聖女がいないのに「聖女」を嫁がせ続けたのは、ひとえに、それがフィサリア国の宿願であったからだ。



 四百年前。

 ソヴェルト帝国が大陸の国々を飲みこみ巨大な国家を作り上げたとき、本来であれば敗戦国であるフィサリア国も、そこに組み込まれるはずだった。

 けれども狡猾だった当時のフィサリア国王は、フィサリア国に誕生する聖女を引き合いに出し、それを嫁がせることで国として存続することを勝ち取った。

 聖女なんて、それこそ歴史書の中に一人か二人登場しただけの伝説上の存在だ。それをあたかも、今も途切れることなく誕生し続けているように語り、国を守った当時のフィサリア国王の狙いは、なにも国を存続させることだけではなかったのである。



 聖女を嫁がせ、その女が国母となれば、フィサリア国が帝国を裏から操ることも可能だと、当時の国王は考えた。野心家だったのだ。

 しかしその願いも虚しく、四百年たった今でも、聖女が国母になった試しは一度もない。

 子をなした聖女もいたというが、その子らは誰一人として皇帝の座にはつけなかった。



 聖女として嫁がされたセラフィーナも、国母となることを望まれた一人だった。

 しかしセラフィーナの夫になった二代前の皇帝は、セラフィーナに見向きもしなかった。もともといた妃ただ一人を深く愛し、嫁いできたセラフィーナには生活の保障だけを与えて、彼女と夜を過ごしたのは初夜のたった一日だけ。

 まるで義務だけは果たしたと言わんばかりで、セラフィーナは夫である男に、以来一度も顧みられることはなかった。



 こんなはずではなかった。

 当時、セラフィーナはフィサリア国で一、二を争う美貌の持ち主として有名で、だからこそ聖女に選ばれたのに――あの男は、セラフィーナに興味すら抱かず、彼女よりも数段劣る妃ただ一人に心を向けた。

 これでは、何のために嫁いできたのかわかったものではない。



 ――皇帝に嫁いで、皇帝の子を産み、帝国の女帝として君臨する。セラフィーナはそのために嫁いできたというのに。



 屈辱だった。

 とくに城から離宮に移されて、遠目ですら夫の顔を見ることが叶わなくなったあの日から、セラフィーナの心の中には憎しみがクモの巣のように巣くっている。

 ようやく忌々しい側妃を消し去ることに成功したのに、何故夫はセラフィーナを見ないのだろう。

 あの美しい顔を、瞳を、こちらに向けさせたくて仕方がなかったのに――どうして夫は、セラフィーナを残していなくなってしまったのだろう。



 憎い。

 憎くて仕方がない。

 セラフィーナから夫を、そして国母となる未来を奪った、側妃やその子らが憎くて――



「聖女様」



 静かな声が耳朶を打って、セラフィーナは顔をあげた。

 声のする方へ視線を向けると、エンバース侯爵がじっとこちらを見つめている。



(ああ、そうね。……もうすぐ、あの女の血を引いた最後の一人を始末できる)



 エンバース侯爵は、帝国に吸収された旧エンバース国の王族の末裔だ。旧国の名をそのまま冠した北のエンバース領を治めている。

 彼はセラフィーナの心棒者の一人で、――セラフィーナのために、憎い先帝を抹殺してくれた信頼のおける男だった。



 祖国から、マクシミリアンの妃にと、セラフィーナと同じように偽物の聖女が嫁いできていた。国の意思が昔と同じく聖女に時代の皇帝を産ませることならば、どんなに腹立たしくとも、セラフィーナはマクシミリアンを消し去ることはできない。

 しかし、国の意思が変わった今、もう遠慮はいらないのだ。



(アンジェリカの力で、帝国を手に入れる。……マクシミリアンを消し去ることができれば、わたくしはもう、それでいいわ)



 国母になる未来も、女帝になる未来も潰えた。ならばせめて、あの女の血を引いた憎い男を始末したい。

 セラフィーナはもう一度、フィサリア国から届いた手紙に視線を落とした。

 まさかフィサリア国が、帝国の転覆をはかっているとは誰も思うまい。



(もうすぐ、ね)



 今頃、ジェラルドがアンジェリカを連れてこちらへ向かってきているだろう。



「エンバース侯爵、ほかの方々はどうなさっているのかしら?」



 帝国に恨みを抱いているのは何もエンバース侯爵一人ではない。巨大な帝国は、巨大すぎるがゆえにあちこちに軋轢を生んでいるものだ。

 エンバース侯爵はニヤリと笑った。



「万事滞りなく」

「そう……」



 セラフィーナは闇に沈んだ窓の外に視線を向けて、口に弧を描く。



(さようなら、マクシミリアン)



 ――あの人に似ている、あの女の血を引いた憎い男。