三日かけて村までの用水路を通したわたしは、五日かけて町の用水路も完成させた。

 マクシミリアンに提案していた万能薬の件は試験的に、最初に用水路を通した村と町でのみ販売が許可された。

 これで問題ないようだったなら、ほかの村や町にも提供を開始するという。



 うんうん。昨日から司祭様に渡す分の万能薬をストップして、小瓶一本銅貨一枚という超格安で販売しているけれど、飛ぶように売れているそれはいい感じの収入源になりそうだ。

 面倒なので販売と管理はセバスチャンに丸投げしたけれど、彼ならばきっちり対応してくれるだろう。



 わたしが当初予定していた村と町の用水路が出来上がったので、次は皇帝が決めた場所にそれぞれ一つずつ、五つの貯水池の作成に取り掛かることにした。

 貯水池を作り終わったあとは、そこから用水路も通すのだが、すべての作業が完成するまで古城に滞在する余裕はマクシミリアンにはないそうで、用水路作りについてはブライトを責任者として残し、彼は一足先に王都へ帰るという。



 貯水池を作る場所までは距離があるので馬車移動になるが、あまり大勢で移動してもそのあたりに住んでいる人間を驚かせるだけだろうと、馬車は一台、護衛も三人と少人数での移動だ。

 当然、馬車にはマクシミリアンと相乗りをすることになるのだが……うーん、気のせいか、ちょっと前から彼の表情が柔らかくなった気がする。

 前まではわたしが何か妙なことをしないかと監視するような、まるで不審者を見るような視線で見られることが多かったのだが、それが何と言うか……同志? を見るような目に変わっていた。



 もしかしても、大嫌いな聖女から、水対策を手伝ってくれる人くらいには、彼の中の印象が昇格したのかな? 穴と溝を掘っただけなのにね。



 一つ目の貯水池の作成場所に到着して、大穴を掘ってその中を水で埋めると、手放しで「よくやった」と褒めてくれたし、ちょっぴり仲良くなれたのかもしれない。

 これでこの夏は安心できそうだと笑ってくれたから、わたしも嬉しくなった。皇帝陛下が安心できると太鼓判を押してくれたんだから、いい出来だってことだよね?



「それにしても、聖女の魔術はすごいな。聖女は全員、このようなことができるのか?」

「どうでしょうか?」



 わたしに訊かれてもわからない。わたしが直接知っている聖女はアンジェリカだけだが、彼女が魔術を使ったところは今まで一度も見たことがないから、判断基準を持っていないのだ。もっと言えば、わたしは自分自身のことを多分聖女だろうなあと思っているけれど、フィサリア国では魔術が使えることを含めそれを黙っていたので、聖女が何たるかについてはいまいちよく知らない。でもそれは言えないから、笑って誤魔化すしかないんだけど。

 仲良くなった気がするから余計に、本当のことを言えないことが心苦しくなってくる。いっそ正直に言えればいいのにね。わたしは聖女アンジェリカのかわりに嫁いできて、国から聖女認定も受けていないから、「多分聖女」なだけの本物かどうかはっきりしない曖昧聖女ですよって。

 チクリ、と胸に刺すような痛みを感じた気がして、わたし左胸の上をさすった。

 実際どこも痛くない。どうして痛いと思ったのだろう。

 マクシミリアンが「どうかしたのか」と訊ねてきたので首を横に振る。なんでもない。ただの気のせい。



 ……そう言えば結婚誓約書、いつサインするんだろう。



 マクシミリアンの滞在に合わせて、司祭様もずっと古城にいる。いいのかなと思ったけど、意外にあの司祭様、古城生活を満喫している様子。最近では使用人に交じって畑のトマトやキュウリの収穫を手伝っていて、それをはじめて見たときは笑ってしまった。司祭様の実家は農家なんだそうだ。うーん、前世が農家の娘であるわたしは仲間意識を感じてしまう。

 結婚誓約書にサインをさせることが目的だったくせに、当初の目的をすっかり忘れてしまったように、マクシミリアンは貯水池作りに夢中だった。



 まあ、サインなんてすぐに書けるから、後回しでも全然いいんだろうけどね。

 でも、そっか、サインをしたら帝国の法的にも、わたしはマクシミリアン皇帝の妃となるのね。妃……マクシミリアンと夫婦。

 なぜだろう、ちょっと照れてしまうような。

 わたしはこの先も古城でのんびりスローライフを送るはずだから、王都の城で生活するマクシミリアンとは、結婚早々永遠の別居生活になるのだけど、夫婦って響きは面はゆいね。

 マクシミリアンの顔を見なければ現実味がなさすぎてそんなことを思わなかったのかもしれないけど、会っちゃったから。ああ、このイケメンの奥さんがわたしかーってちょっと思っちゃうわけよ。



 二つの貯水池を作って、今日は帰途につく。

 やっぱり汗をかいたから夕食前にお風呂に入って、バスタブで長く足を伸ばして、わたしは湯気でぼやけている天井に向かってはーっと息を吐きだした。

 マクシミリアンがここにいるのもあと数日。

 この数日が終われば、聖女嫌いな彼とは、一生会うことはないのかな。

 それを淋しいなーと思うのは、やっぱり彼と仲良くなれた気がするからだろう。

 夫婦としてはどうかわからないけど、友人としてなら仲良くやっていける気がするのに、二度と会えないのか。……どうしてマクシミリアンは、聖女が嫌いなのかしらね。



 髪と体を洗って浴室から出る。ミナにタオルで髪を拭いてもらったあと、青い半そでのワンピースに袖を通した。

 ここに来たのは春だったのに、もうすっかり初夏の装いだ。

 アンがレモンの果汁を落とした水をくれたのでごくごく飲んでいると、コンコンと扉を叩く音がする。

 マクシミリアンかしらと一瞬思ってしまったけれど、入ってきたのはセバスチャンだった。

 いつも穏やかな彼の表情が強張っている。彼は「お手紙です」と短く言って、一通の手紙を手渡した。

 封は切られていない。ひっくり返してみて、差出人の名前に首をひねった。

 セラフィーナ。



「誰?」



 思わず訊ねると、セバスチャンが驚いたような顔をして、それから小さく苦笑した。あ、よかった。強張っていた顔がいつもの顔に戻ったみたい。



「二代前の陛下……マクシミリアン陛下のおじい様に嫁がれた、聖女様からのお手紙です」



 セバスチャンがそう言うと、アンとミナの表情が凍り付いた。

 言われてみたら、三十五年前にこの国に嫁いだ聖女はそんな名前だった気がする。先々帝とは年の差結婚だったから、まだ五十代半ばと若いはず。



「そのセラフィーナ様が何の用なのかしら?」

「さあ……その手紙は、クリスティーナ様にお渡しするまで開封を禁止されておりますので。……クリスティーナ様以外が開ければ呪われるという術がかかっているそうです」



 何それ怖!

 そんな恐ろしい魔術があるの⁉

 わたしは思わず手紙を取り落としてしまった。

 なんて恐ろしい魔術を使うのかしらセラフィーナって人は!

 びくびくしながらそっと手紙を拾って――わたしは、ん? と首をひねる。

 魔術がかかっているかかかっていないかは、魔術が使える人間ならなんとなくわかるものだ。だが、この手紙からは何も感じない。

 なあんだ、ただの脅しか。えげつない脅しをするわね。

 わたしがペーパーナイフで手紙の封を切ると、セバスチャンが困惑した。



「ここで開けてよろしいのですか?」

「え、ダメだった?」

「……いえ、お一人の時に読まれるのかと」

「聖女の手紙って、一人の時に読まないといけないルールがあるの?」

「ありませんが………………、ふ、ふふふ……」



 突然セバスチャンが笑い出した。

 アンとミナまでくすくすと笑い出す。

 なんで? なんで笑われてるの?

 何か変なことをした?

 わたしは気が付かなかったけれど、このときセバスチャンは、わたしとセラフィーナが裏でつながっていて、何かこそこそ暗躍しているのではないかと疑っていたらしい。それなのに人の目があるところで堂々と手紙を開けたから、そんな疑いを抱いたことが馬鹿馬鹿しくなったそうだ。



「夕食まで時間があるので、お茶をお持ちいたしましょう」



 セバスチャンがホッと安堵した顔でそう言って部屋を出て行く。

 わたしは「ありがとう」とお礼を言って、セラフィーナの手紙に視線を落とした。

 便箋が一枚だけの、短い手紙だ。

 何が書いてあるのだろうと読み進めたわたしは、読み終わって首を傾げる。

 ……なんだこれ?