早いもので、わたしがソヴェルト帝国に来て一か月がたった。

 けれども、一応嫁いできたはずなのに、一度もマクシミリアン皇帝陛下とは会っていないし、当然結婚式もしていない。

 もっと言えば、肖像画すら届いていないから、マクシミリアンの顔も知らない。



 二十三歳の若き皇帝マクシミリアンには、まだ妃が一人もいないそうで、わたしの扱いは彼の正妃となる予定らしいのだけど――このまま永遠に古城に放置されて、結婚式もしなければ結婚誓約書にサインもせずに生涯を終えることになる気がしているのは気のせいかしら?

 ソヴェルト帝国はフィサリア国と同じように、相手が皇帝であろうと、結婚する際にはお互いが結婚証明書にサインをしなければならない。結婚誓約書に記入しないと、結婚したと認められないのだ。

 よって、わたしは「マクシミリアンの正妃になる予定」の聖女で、実際のところは、まだ彼の妻でもなんでもない。

 ま、結婚誓約書にサインをしてもしなくても、紙切れ一つのことだけで、生涯ここで生活する事実は変わらないから、わたしとしてはどっちでもよかったりもする。



「うんうん、トマトもキュウリも、いい感じに育って来たじゃないの!」



 魔法を使えば楽ちんだと気が付いたわたしは、城の庭を魔法で掘り返して整えて、見事に広大な畑へと変貌させた。

 ほしかった果樹の苗もいろいろ手に入って、右の端には果樹園、左の端には麦畑、そして真ん中には野菜を育てるための畑が完成している。

 セバスチャンにせめて道だけはつぶさないでくれと懇願されたので、門から玄関まで続く曲線状の石畳の道はそのままにしているが、曲線を描きながら門から玄関までを伸びる道のすぐ横をにょきにょきとトマトやらキュウリやらカボチャやらが伸びていく様に、彼の表情は完全に「無」になっていた。もう何も考えたくない。そんな顔。



 やれやれ、今からそんなことでどうするんだか。

 一年の予算の大半を城の大改造で使ってしまったから、来年分の予算をもらうまで余裕がない。

 わたしは思いつく限りの節約とお金儲けをするつもりなので、野菜畑程度で灰のようになられては困るのである。



「クリスティーナ様、ほんとに芋虫を育てるんですか?」

「うん」



 古いと言っても馬鹿みたいに大きいから、城にはいくつもの空き部屋があるし、周りには使っていない小屋もたくさんある。

 その小屋の一つを改造し、わたしは蚕を育てることにした。

 蚕。繭から絹が取れる、あの白っぽい芋虫。

 ミラはわたしの魔法でちょちょいっと改装された蚕部屋の入口ですごく嫌な顔をしている。

 アンに至っては「気持ち悪い!」と悲鳴を上げて逃げて行ってしまった。



「だって、せっかく経験者がいたのよ? 知識と経験は生かさなきゃ損じゃないの!」



 そう。蚕部屋を作ろうと思い立ったきっかけは、使用人の中に蚕から絹を生産したことがある経験者がいたことだ。

 ベッキーと言う名の四十を少し過ぎたふくよかなご婦人は、洗濯メイドだったのだけど、世間話をしたときに、数年前まで養蚕をしていたことを知ったのだ。

 何でも、早世した夫と一緒に絹を作って生計を立てていたらしいのだが、夫が他界した際にやめてしまったという。



 なんてもったいない!

 そして、絹なんて実に高く売れそうでいいじゃないか!



 と、いうことで、ここで蚕を育てて絹糸を作らないかと打診してみると、二つ返事でオッケーしてくれたというわけだ。



「この虫、大きくなったら蛾になるんですよね? 嫌ですよ、この扉を開けた途端に、ぶわっと蛾が飛び出してくるなんて……」

「そんなことにはならないから大丈夫よ。絹を取るときに茹でるから死んじゃうし」

「ひっ、なんて残酷な……!」



 芋虫が気持ち悪いという割に、茹でられると聞いて急に可哀そうになったのか、ミラは急に同情的な目になった。けれども決して蚕部屋の中には入ろうとしない。同情しても気持ち悪いものは気持ち悪いらしい。

 まあわたしも、蚕が茹でられるところはあんまり見たくないかも。残酷と言ったら残酷だし。



 もう行きましょうと急かされたので、わたしはミラと一緒に城へ戻ることにした。

 今日は改装した小屋の状態を確かめただけだ。蚕はまだ仕入れていないので、ここが稼働するのはもう少し後になる。

 解雇の餌になる桑の葉も買えばバカにならないので、裏手の厩舎の近くに桑畑を作るつもり。

 裏手にはまだまだ手を付けていない広大な土地が広がっていて、見渡す限り自由にしていい敷地だというから、これは使わない手はないだろう。



 桑はマルベリーと言う実もつけると言うから、蚕の餌も取れて一石二鳥。マルベリーはジャムにして売りさばく予定だ。

 城の玄関から中に入ると、ここに来たときとは比べ物にならないほど明るい雰囲気に変わっている。

 入ってすぐの壁には華やかな花の絵が飾られている。

 壁紙も薄いミントグリーンのものに張り替えた。

 残念ながら目の前に見える大階段の踊り場にかけられている不気味な肖像画は取り外してもらえなかったけれど、壁紙を変えただけでお化け屋敷の雰囲気は一掃された気がするので良しとしよう。



 ちなみにあの古臭い肖像画の正体をセバスチャンに訊いてみたところ、なんと、この城を建てた四百年前の皇帝陛下だそうだ。つまりこの城は四百年前から存在しているということになる。そしてこの城は、その皇帝が妻だった聖女の願いを聞き入れて建てたものらしい。

 この話はソヴェルト帝国では有名な話らしく、王都にある城が嫌いだと言い出した聖女が、自分のための城を作れと我儘を言って、莫大な金をかけて作らせたらしいのだ。



 なるほど、マクシミリアンがわたしの居住場所としてここを選んだはずである。昔の聖女が作らせた城だから、嫁いできた聖女を住まわせるにちょうどいい、そういうことだろう。

 薄ピンク色の壁紙に変更した私室に戻ると、アンがクローゼットの整理をしていた。

 広いクローゼットの中には嫁ぐときにフィサリア国王から贈られたドレスがわんさかと詰まっているけれど、畑仕事をしたりあちこち歩き回ったりするのに、豪華なドレスは動きにくく、ここに来てからと言うもの一度も袖を通していない。

 代わりにそこそこ安価なワンピースを数着購入して、それをローテーションで着まわしていた。パーティーに行くでもないし、誰かが来るわけでもないのに、毎日お洒落をしていては肩が凝って仕方がないから、安くて楽なワンピースでいいのだ。



 これにもセバスチャンが渋い顔をしたけれど、彼も最近では諦めの境地のようで、ちょっとやそっとでは驚かなくなった。うんうん、いい傾向。

「こんな姿、とてもじゃないですが陛下にはお見せできませんね……」と嘆かれたけど、一度も会いに来ない未来の夫を、「今日は来るかも!」と毎日お洒落して待つような無駄な真似はしない。



「そのドレスたち、売ったらいくらになるかしらね? 高く売れるなら売り払いたいんだけど」



 畑の作物もまだできていないし養蚕もこれからなので、この城に収入になりそうなものは何もない。

 今のところまだ食事に影響は出ていないけれど、使いまくった予算が自動的に増えるはずもないから、そのうち底をつくのは目に見えている。



「生地もデザインもいいですから高く売れるのは間違いないと思いますけど、……これらを売るんですか?」



 アンがたくさんあるドレスのうち、ライトパープル色のドレスを手に振り返る。



「多分着ないと思うから、デザインが流行遅れになる前に売ってしまった方がいいじゃない」

「着ないんですか?」

「そんなものを着て畑仕事はできないもの」

「……畑仕事前提なんですね」



 アンが残念な子を見るような目を向けてくる。なんだかここ最近、そんな視線を向けられることが増えてきたように思うのはわたしだけだろうか。

 もしかしなくとも、アンたちの中の「聖女」像を見事にぶち壊してしまった気がするから、そのせいかしらね。

 わたしは案の隣に立ち、クローゼットの中を覗き込んだ。



「一着か二着……そうね、もかしたら手違いで皇帝陛下に呼び出されるようなことが起こりうるかもしれないから、念のため二着ほど残しておいて、あとは売り払っちゃいましょう」

「手違いですか……」

「手違いでしょう?」

「ずっと思っていましたけど……クリスティーナ様って変わっていらっしゃいますよね」



 アンがぼそりと言うと、すぐ後ろでミナが「うんうん」と大きく頷いた。



「そう?」

「ええ。普通の女性なら、嫁いできたのに夫となる方から放置されれば、怒り狂ってもおかしくないと思うのですが」

「ああ……、まあ、そうかしらね」



 アンの言うことはわかる気がする。わたしも、例えば結婚相手のことが大好きで今か今かと結婚するその時を待ちわびていたならば、たぶんブチ切れていただろう。

 しかし、わたしの結婚は突然降ってわいたもので、それも結婚するのだろうと思っていた婚約者から婚約破棄されたのと同時だ。そしてさらに、マクシミリアンの花嫁になる予定だった異母妹のかわりに嫁げという何とも無茶苦茶な要求を呑んでの形だった。だからだろうか、この結婚にはこれっぽっちも夢とか希望を抱いておらず、むしろ公爵家で生活していたよりもずっと自由な生活を与えられたからありがとうと言いたいくらいなのだが――そんなことを言えば余計に変人を見るような目で見られそうなので黙っておく。



「でも、皇帝陛下に嫁ぐとか、わたしには荷が重すぎるというか、ね」

「確かにクリスティーナ様は聖女らしくありませんからね」



 アンは大きく頷いて、たくさんあるドレスの内の、どれとどれを残すのかと訊ねてきた。

 袖を通す機会は訪れないだろうからなんだってかまわないのだが、できるだけ流行に左右されなさそうなデザインを残すことにする。



「じゃあ……その青いドレスと、奥の黄色いドレス。その二つにしましょう」

「わかりました。セバスチャンに言って、買取のために商人を呼んでもらいますね」



 よし、これでいくらかまとまったお金が手に入るだろう。

 持って来た宝石類も売り払ってしまえばもっと金になるのだが、こちらはもうしばらく持っておきたい。身に着けるためではなく、万が一に備えてである。



 万が一――そう、例えば身代わりだとばれて、ここを追い出されることになるかもしれないから。

 その時に持って逃げるため、金になり、なおかつかさばらないものは残しておきたい。

 まあ、身代わりだろうと何だろうと、わたしは聖女の力を持っているみたいなので、いくらでも言いくるめることはできるだろうけどね。

 それに、フィサリア国ではわたしは「聖女」認定されていなかったから、アンジェリカの身代わりとして嫁がされたことを知る者には箝口令が敷かれているはずだ。あちらとしては偽物を嫁がせたことになっているのだろうから、露見したらただではすまないことくらいわかっているはずなのである。だからわたしが身代わりだということが外部に漏れることはまずないと思うけど。

 聖女が誰なのかは嫁ぐ前まで口外しないから、本当に一部の人間しかアンジェリカが本物の聖女だということは知らないはずだし。



 そこまで考えて、ふとわたしはアンジェリカのかわりに帝国に嫁げと言われたあの雪の日を思い出した。

 アンジェリカはジェラルドと結婚して王妃になるという。

 帝国で女帝として君臨すると妄想に妄想を膨らませていたあの異母妹が、よく小国の王妃の座で満足できたものだ。



 もしかしたら、アンジェリカとジェラルドは、わたしが知らないところで恋仲だったのかしら?



 わたしはジェラルドと婚約関係にあったけれど、月に一、二度顔を合わせる程度だったし、会っていないときに彼が何をしていたかなんて全く知らなかったから、二人の関係に気が付かなかっただけだろう。

 ま、もう関係のないことだし。

 帝国に嫁がされた以上、祖国に戻るようなことは二度とない。

 帝国の情報がフィサリア国に漏れることを恐れてなのか、嫁いだ聖女は二度と祖国へは戻れないことになっているのだ。

 わたしは二度と会うこともないだろう元婚約者と異母妹のことは考えるのをやめて、アンとともに売りさばく予定のドレスをクローゼットから引っ張り出した。