翌朝、いつもの待ち合わせ場所へ行くと、傘をさしている香乃の後ろ姿が見えて足を止める。そして一呼吸置いてから、傘の柄の部分をきつく握りしめて口角を上げた。

「おはよう」

 うまく笑えているだろうか。そんな思考を遮るように、傘を傾けて香乃から視線を外す。


「おはよー。菜奈、夏服にしたんだ」
「うん、そろそろ衣替えしようかなって」
「雨降ってじめじめしてて暑いよね。私も夏服にしようかなぁ」

 もしも香乃が離れていったら、私は……どうなってしまうんだろう。

 ——香乃は絶対的な存在じゃないよ。


 千世の言葉が頭を過ぎる。
 香乃との関係が壊れても、ひとりになるわけではない。クラスに友達もできて、伊原くんや千世もいる。

 だけど、誰かの代わりなんていない。
 香乃は唯一無二の存在で、それは千世や伊原くんたちだってそうだ。

 相手の一部が私とは合わないとしても、全てを断ち切って投げ出すように関係を終わらせるようなことはしたくなかった。

 でも千世の言う通り、私は香乃を絶対的な存在だと思い込みすぎているのは自覚している。

 機嫌を損ねないようにと気にするあまり、私は香乃に本当の気持ちを押し隠すようになってしまっていたのだ。

 たとえ険悪になってしまったとしても、思っていることを話さなければいけないときだってある。


「香乃」

 これを言ったら、きっと香乃は機嫌が悪くなる。だけど、もう隠しておくことはしたくない。


「私、千世と話して仲直りしたよ」

 隣を歩いている香乃から一瞬表情が消えた。

「ふーん」

 明らかに不服そうに返事をされてしまう。その反応に怯みそうになるけれど、まだ確認をしなければいけないことがある。

「どうして……千世に嘘ついたの?」

 立ち止まると、香乃が私の数歩先で振り返った。
 傘が雨粒を弾いた音が虚しく響く。居心地の悪い沈黙が数秒続き、伏せられていた香乃の視線が、私の方へ向けられる。

「嘘って?」

 目を逸らしたくなるのを必死に耐える。香乃の冷たい眼差しは今まで何度も見てきた。けれどそれはいつも別の誰かへのもので、私にではなかった。

 今、私は初めて香乃に拒絶されている。


「……千世のことが嫌だなんて、一度も私言ってないよ」

 香乃の返答を聞くのが怖かった。本当は揉めたりせずに平和に過ごしていたい。だけど、もう引き返すことはできない。

「でも私と一緒にいたってことは、似たようなこと思ってたでしょ?」
「それは」
「違うっていうなら、ただの八方美人じゃん」

 私はそういう立ち位置にいたのかもしれない。相手のことを悪く言っていないとはいえ、香乃にも千世にもいい顔をしていたのだ。優柔不断だった私にも非はある。
 それでも言ってもいないことを、本人が言ったように伝えることは間違っている。


「……っ」

 感情が溢れ出すと、怒りとか悲しみよりも先に涙が出てきてしまいそうになる。泣くべきじゃないのはわかっている。毅然とした態度で話したかった。けれど、想いを言葉にして伝えるのは難しい。


「私の気持ちを……勝手に決めないで」

 絞り出した声は震えて、視界が滲む。青や赤の光が混じり合って、空気に溶けていった。

「私の気持ちは私だけのもので、香乃のものじゃない……っ」

 こぼれ落ちる涙を手の甲で何度も拭う。
 今まで香乃の言葉の中にいくつもの嘘が見えた。

 けれど、絶対に嘘をつかない人なんていないし、香乃のことを責めたいわけではない。ただ私の気持ちを勝手に香乃が決めて、千世に伝えることは受け入れることができなかった。

「どうせ千世が私のこと菜奈に悪く言ったんでしょ?」
「ちが……っ」

 香乃の視線は私ではなく、後方へと向いている。

「私は嘘なんて菜奈に言ってないけど?」

 振り返ると、ビニール傘をさした千世が立っていた。目を細め、香乃を射抜くように見つめている。


 雨が降り頻る中、一触即発といったふたりの空気に私の涙はぴたりと止まった。立ち止まっている私たちは目立っているようで、行き交う学生や会社員の人たちからの視線を感じる。

 話すのなら場所を移動するべきか考えていると、香乃はため息を吐いて踵を返した。

「……先行くわ」
「待って、香乃!」

 引き留めようと声をかけても。香乃は先を歩いていってしまう。

「ごめん、菜奈。私が邪魔したせいだよね」
「ううん、私が香乃のこと怒らせちゃったから。……また今度ちゃんと話してみる」
 私の全部を香乃が理解することはできないし、香乃の全部を私も理解することはできない。だけど今言葉にすることを諦めたら、きっと香乃は私たちの関係をリセットするはずだ。