ふわふわと浮上した気持ちのまま家に帰ると、静まりかえった空間によって現実に引き戻される。

 前なら詩の靴が玄関に並んでいたけれど、今は下駄箱に仕舞われていた。
 最近はリビングのテレビもほとんどついていない。自分の家のはずなのに、別の場所みたく感じるのは、詩が部屋に閉じこもってしまってからだ。

 どうして私は、気づけなかったんだろう。そうやって同じことを何度も考えては、自責の念に駆られる。
 先ほどまでの幸せは夢だったかのように溶けて消えていき、洗面所に足を踏み入れてため息を吐いた。

 手の中に溜まった水が指先から零れ落ちて、泡と共に排水溝を流れていく。

 顔を上げると鏡に映るのは、暗い表情をした自分の姿。目元を指先でなぞるように触れる。瞳にこれといった変化はなく、光感覚症になっても見た目ではよくわからない。


 指先から滴った冷たい水が、涙のように目元から頬にかけて伝う。
 ……嘘が今更見えても、詩を救えない。


 目を伏せて、近くにあるタオルを手に取った。手のひらの水を拭ってから、洗面所を出て階段を上がっていく。


 閉ざされた詩の部屋のドアを横目で見てから、自分の部屋のドアを開ける。中に入るとき、カサっと音がした。

 足元を見ると、小さなメモ用紙のようなものが落ちている。拾い上げてふたつに折り畳まれたそれを開くと、見慣れた字体で二行ほどなにかが書いてあった。

「え……!」

 それは詩から私への手紙だった。


『心配してくれたのに怒鳴って枕を投げちゃってごめんね。お菓子、ありがとう』

 そして下の方に消した跡が見える。筆圧が強くて薄らと読めてしまう。


『菜奈ちゃん私ね、学校で』


 書きかけの言葉からは、詩が私に伝えようとしてくれたことがわかる。きっとまだ話すのは怖いのかもしれない。だけどこうして勇気を出して手紙の返事をくれた。


 抱きしめるように手紙を胸元に引き寄せて、目を閉じる。
 頬に伝わる涙は温かかった