桜蘭高校から自宅までの道のりは30分といったところだろうか。
最寄りの私鉄に乗り15分ほど電車に揺られ、駅から10分歩くと白い壁に赤い屋根の我が家が見えてくる。建売だけど新築で私もこの家がとても気に入っている。

登下校の途中には桜並木の歩道があって、ピンクの花びらを目いっぱい咲かせ、はらはらと舞い散る花びらを肩で受けながら、ああもう春なんだな・・・と感傷めいた気分になる。

3月も半ばになり、3年の先輩は卒業していき、昨年までは1年生だった私達も4月になれば2年生に進学する。

ママは以前、一緒にカラオケに行った時に昔のアイドルの曲を歌っていた。

好きな先輩が卒業してしまい、お別れしてしまう歌だけれど、私にはお別れする相手がいたことないから、その気持ちが全くわからない。

沙耶は中学の卒業式で、好きな男子に制服のボタンを貰ったと言っていたけれど、もちろん私にはそんな経験はない。男にボタンをもらってなにがそんなに嬉しいの?

ましてや世の中に蔓延る恋愛ソングの意味が判らない。

「愛してる」「恋しくて」「いますぐ会いたい」「君に夢中」

そんな単語は私にはまったく無縁の感情だ。

それは芸能人でも同じで、テレビで歌って踊るジャニーズの面々にも全く興味ない。

私が学校一キモいと思っている若い男性教師の古典担当である五十嵐よりはマシだと思うけど、ただそれだけ。

特に好きな男性芸能人も俳優もいない。

私という人間は女子として、ちょっとした欠陥人間なのだろうか?

でもそんな人間がこの世に一人くらいいたっていいじゃない?と開き直ってみる。

沙耶の言うように、この先社会に出て会社に勤めたりしても、好きな男と出会う未来なんて想像できない。

ましてや結婚して子供を産んで、なんてことは夢のまた夢だ。

パパ、ママ、ゴメンナサイ。

あなた達に孫の顔を見せることは出来そうもありません。

親不孝な娘をどうか許してください。

歳をとっても独りで生きていく私を、パパやママは受け入れてくれるのだろうか?

もしかしたら不肖の娘のために、お見合い写真なんてものを山ほど持ってくるかもしれない。

そしたらパパやママのために、誰でもいいから結婚するしかないのかな・・・。

「恋・・・か。」

友達はドキドキして胸が高鳴ってキュンとなって・・・なんて言うけど、私は一生恋なんて出来っこない・・・と思いながら、ため息をひとつついた。



そんなことを考えながら気が付くと、我が家の玄関の前に着いていた。

玄関ポーチにはママが丹精込めて育てているパンジーとノースポールの花が私の目を楽しませてくれる。

深緑の重い扉を開け、玄関に入るとパパの少し古ぼけた黒い革靴の横に、大きなナイキのスニーカーが無造作に置かれている。

「ただいま。」

「おかえりなさい。ちゃんと早く帰って来たわね。エライエライ。」

ママがわざわざ出迎えてくれた。

今日もママはフリルのついたピンクの水玉のエプロン。

緩やかな内巻きカールの髪につやつやした桜色の口紅をつけたママは40代とは思えないほど若々しい。私よりよっぽど女子力が高い。

好きな俳優は佐々木蔵之介。

つい最近結婚しちゃったって嘆いていたっけ。

背が高いところは同じだけど、強面のパパとはまったく正反対のタイプ。

どうしてあのパパと結婚したのか謎だ。

「当たり前でしょ。もう小学生じゃないんだから、お母様のいいつけは守りますよ。」

「よろしい!」

ママと同時にポメラニアンのモモがリビングの奥から廊下を走って、私に飛びついてきた。

「モモ、お利口にしていた?」

フワフワな毛並みと、黒い瞳がウルウルしている小さな可愛い生き物を胸に抱いて、私はリビングに顔を出した。

テーブルにはすでに厚焼き玉子をおつまみに、ビールを飲んでいるパパと信二兄ちゃんがいつもの席に座っていた。

「おお、つぐみ。お邪魔してるよ。」

「信二兄ちゃん、久しぶり!元気だった?」

「当たり前じゃ。俺はいつも元気はつらつオロナミンC!」

また少し横幅が大きくなった信二兄ちゃんが、たれ目を細くして私に笑いかけた。

「つぐみも一杯、やるか?」

顔を真っ赤にしたパパがジョッキを片手に持ち上げる。

パパの顔ははっきり言って見知らぬ人が見たら、ヤクザか消費者金融の取り立て屋か、というほど凶悪な顔つきをしている。

北野武の映画に出て来そうな風貌だ。

しかし性格は底抜けに明るく、どんな人にも尊大な態度をとらないし、かといって卑屈にもならない、気さくなパパだ。

私は好きになるならこんなパパみたいな男の人がいいな、と内心思っている。

もしかしたら私はちょっとしたファザコンなのかもしれない。

「パパったらやめてくださいよ。つぐみはまだ未成年なんですからね。」

ママがパパをたしなめる様に言うと、パパは

「少しくらい構いはしないさ。なあ、つぐみ?」とおどけた声を出した。

「パパ、もうお酒くさい。」

私が呆れて言うと父は「そうか?」と自分の袖をクンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。

「つぐみ。早く着替えてらっしゃい。もう夕飯にするから。」

「はーい。」

ママにそう返事をした私はモモを床に降ろすと、二階の自分の部屋へ向かった。

階段を上がった廊下のすぐ右にあるドアを開ける。

中学の美術の時間に作った「TUGUMI」と書かれた木製のドアプレートが揺れた。

部屋に入りクローゼットの中に素早く脱いだ制服を、ハンガーにかけて仕舞う。

私のクローゼットの中のワードローブは黒や茶、グレー、紺といった暗い色が中心だ。

赤や黄色などといった原色はもちろんのこと、淡いパステルカラーも無いに等しい。

一着だけママからのお下がりで譲り受けたピンクのセーターがあるけれど、一度も袖を通していない。

もちろん可愛いワンピースなど皆無に等しい。

今日もグレーのセーターとGパンという色気もそっけもない服に着替えて、髪を黒いゴムで

後ろ一本に結んだ。そしてこれからされると思われる話に大きな期待を抱いた。

信二兄ちゃんは私の身近にいる唯一の若い男性だ。

年は私と4歳違いの21歳、大学3年生。

明るく楽天的な性格は、パパと血が繋がっていることを証明している。

小学生のときからずっと野球部に所属していて、たしかポジションはセンターとか言っていた。そのせいか、大柄で足も声も大きい信二兄ちゃんは、

私が幼いときはよく公園でボール遊びをしてくれた。

「つぐみ、案外筋がいいぞ!」

そういって大きな手で頭を撫でてくれた。

そのおかげか体育の授業は苦手だけれど、球技だけはちょっとだけ楽しかったりする。

信二兄ちゃんは料理も得意で、今は西麻布にあるお洒落なカフェでバイトをしている。

始めて間もないうちに、すぐ厨房を任されていたらしい。

一回だけ、ママとそのカフェにパスタを食べに行ったけれど、そのメニューはオリーブとバジルの相性が抜群ですごく美味しかったのを覚えている。

ちょっとドジしてフォークを落としてしまったっけ。

見知らぬお兄さんが拾ってくれたけど、恥ずかしくてお礼もロクに言わないまま、おもわず目を逸らしちゃった。ちょっと失礼だったかしら。

リビングのテーブルには人数分のお寿司と唐揚げ、ミモザサラダ、と信二兄ちゃんの好物が、所せましと並んでいた。

私は定位置の椅子に腰かけ、忙しく働くママが席に座るのを見計らって手を合わせた。

「いただきます。」

私がサラダに手を付けると、信二兄ちゃんがお酒に酔ったのか目をとろんとしながら私を見てにやにやしながら言った。

いつものヤツだ。

「おう、つぐみ。彼氏できたか?」

「出来るわけないって知っていて、聞くのやめてくれない?」

信二兄ちゃんは私が男嫌いなのを知っているくせに、会えばこの言葉をぶつけてくる。

「ははははっ!つぐみをからかうの、楽しいからな。」

「さあさあ。信二君、まだまだ唐揚げあるから、沢山食べてって頂戴。」

「真理子さんの作る料理は絶品だなあ。この唐揚げもニンニクが効いていて美味い!

綺麗で料理上手で素敵な奥さんを貰った兄さんが羨ましいわ~。」

「そうだろう、そうだろう!お前も早く嫁さんをもらえ。」

パパはうんうんと頷きながら、恥ずかし気もなく惚気ている。

嫁さんだって!やっぱり信二兄ちゃんは結婚するんだ!!

パパが自ら惚気るように、たしかにウチの両親は仲が良い。

私が修学旅行中や友達の家にお泊りに行った時には、二人で映画を観に行ったり、食事にいったりしているらしい。

仲が良いのはいいことだけど、年頃の娘の前では少し自重して欲しいと思ったりする。

久しぶりの握りのお寿司は美味しかった。

最後まで残しておいた、一番好きないくらを口に入れると、信二兄ちゃんがそれを見計らったかのようにひとつコホンと咳払いをして、ほんの少し間をあけ、改まった声を出した。

「・・・今回の件は、ホント有難う。ヤツも助かると思うわ。」

「まあ狭い家だけど、若い人の役に立つならお安い御用だよ。」

ん?狭い家?ヤツって信二兄ちゃんのお嫁さんじゃないの?

目が点になっている私に、パパが眉毛を漢字の八の字みたいに下げながら口を開いた。

「つぐみにはまだ言ってなかったな。実は信二に頼まれて、信二の親友という子をウチに居候させることになったんだよ。」

「え?そうなの??私、初耳なんだけど。」

私はグラスに入った麦茶をごくりと喉に飲み込んだ。

私はしどろもどろにパパと信二兄ちゃんを交互に見た。

「信二兄ちゃんの親友って、・・・もちろん女の人、だよね?!」

「いや、俺と同い年の男だけど。」

信二兄ちゃんは間髪いれずに言った。

「・・・男・・・オトコ!!?」

私は思わずそう叫んでいた。

私の生活の場に見知らぬ男が入り込んでくるってこと?!

いきなりの展開に頭がくらくらとし、めまいがした。

「な、なんで私に相談してくれなかったの?!」

ママはため息をついて

「私は反対したんだけどねえ。」とつぶやく。

「相談なんかしたら、つぐみは大反対するだろ?だから言わなかった。」

パパが眼鏡のフレームを指で持ち上げた。

「そりゃそうだよ!パパだって知っているでしょ?私が男の人嫌いだって・・・」

「つぐみも社会人になる前に、俺や兄貴以外の男性にも慣れておいたほうがいいと思う。

その点、弘毅はちょっとぶっきらぼうなとこもあるけど、いい奴だよ。俺が保証する。」

信二兄ちゃんはビールを一口飲むと、続けて言った。

「俺の高校時代からの親友、鹿内弘毅っていうヤツでな。親戚の家に住んでいたんだけどそこの息子が結婚するとかでその家に居づらくなって、住むところを探していたんだ。でも賃貸住宅に単身で住む金はまだ持ち合わせていなくてさ。実家にはまあ大人の事情ってやつで住めないんだ。幸いこの家にはお祖母さんがいた部屋が一つ空いているし、兄さんに相談したら快く受け入れてくれるっていう話になったんだ。ヤツは金が貯まったらすぐにアパートでも見つけて出て行くって言っている。だから少しの間だけ・・・つぐみには迷惑な話かもしれないけど、人助けだと思って受け入れてやってくれないかな?」

「大人の事情ってなに?」

私が食い下がるとパパ、ママ、信二兄ちゃんが一斉に視線を交わらせて無言になった。

「大人の事情を子供は知らなくていい。それ以上は詮索するんじゃないよ。」

信二兄ちゃんはそれだけ言うと、珍しく神妙な顔でダンマリを決め込んだ。

「私、ほんと無理なんだけど・・・。」

「つぐみ!これは決定事項だからな。」

普段は私に激甘なパパが珍しく厳しい声を出すのを聞いて、

私はそれ以上なにも言えなくなった。

いとこの赤ちゃんを可愛がる計画は、私の完全な早とちりだったのだ。

「その・・・鹿内って人はどういうカンジの人なの?」

私は同じ家に暮らす人がどんな男なのか、信二兄ちゃんに探りを入れてみた。

「そうだなあ。背は185センチ、体重は70キロくらいかな?」

185センチ?デカッ!!

「性格は真面目で実直。勉強とサークルとバイトを同じくらいの熱量でこなしている。

俺の尊敬する親友の一人だよ。俺と同じ野球サークルに所属していて、先輩からは信頼され後輩からは頼られている、上下関係を重んじる体育会系の男。」

体育会系の男!なんか暑苦しそう。

「びっくりするほどのイケメンで高校でも大学でも女によくモテてるわ。

まあ俺には負けるけどね。」

信二兄ちゃんに負けるイケメンってそれもうイケメンじゃないよ。

もちろん最後の一言は冗談だろうけど、信二兄ちゃんは自分のことのように、その鹿内という男を褒めたたえた。

「でも聞いた話では、中学時代まではそうとうヤンチャしていたみたい。地元では喧嘩じゃ負け知らず。狂犬の弘毅ってあだ名で有名だったらしい。

まあ俺と知り合った高校時代は野球という熱中する対象を見つけたからか、だいぶ落ち着いていたけど。」

「ほんとに?!そんな狂暴な男と一緒に住むことになるの?」

私はテーブルに手を置いたまま勢いよく立ち上がった。

地元じゃ負け知らずってどこかで聞いたフレーズなんだけど。

「あらいいじゃない?アルソックいらずで。ねえパパ!」

ママが声を弾ませてパパに同意を求めた。

「ま、俺がいれば強盗だろうとコソ泥だろうと全然問題ないけどな。」

パパがこぶしを握りながらファイテイングポーズを決める。

「もう。変なところで張り合おうとするんだから。」

ママがパパのこぶしにハイタッチした。

「でも本当に心根は優しいヤツなんだ。虫一匹殺せないんだから。」

「あら、それは困るわ。ゴキブリが出た時に頼りにならないじゃない。」

ママは相変わらず能天気なことを言っている。

「ただ、まあアイツもつぐみと同じように、ちょっとアレなんだよな。」

「アレってなによ?」

「まあアイツと話したらいずれわかる。

それに数学ではマイナス×マイナスはプラスになるって言うし。」

そう言って信二兄ちゃんはにやりと笑った。

「なにそれ。全然意味わかんない。」

私は根負けして信二兄ちゃんに言った。

「わかったわよ。どうせ少しの間なのでしょ?我慢する。」

「つぐみならそう言ってくれると思っていたよ。よろしく頼むな!」

「・・・うん。」

そうは答えてみたけれど、正直気が重かった。

男・・・オトコ・・・おとこ・・・。

やだやだ。知らない男と一緒に住むなんて。

けれど考えてみればここはパパとママの家だ。

まだ10年くらいローンが残っていようとも、パパが懸命に汗水たらして働いて手に入れた家だ。

パパとママが受け入れるのなら、私はそれに従うしかないのだ。

私は頭がパニックのまま、しぶしぶ頷かざるを得なかった。