鹿内さんと顔を合わせない日々が続いていた。

鹿内さんは相も変わらず、朝早く出掛けて、夜遅く帰ってくる。

まるで私と会うのを避けているかのように思えた。

そんなある日、パパとママの共通の友人のお父さんが亡くなったということで、二人ともに新潟まで出かけることになった。

遠出するので一泊してくるという。

喪服姿でテキパキと動くママとは対照的にパパはテーブルで新聞を広げている。

「健太郎さん!のんびりしてないで、支度をしてくださいな。」

「もう支度なんてとっくに終わっているぞ。まったく女っていうのはどうしてこう外出の支度に時間がかかるのかね。」

「あら。女性は男性と違ってお化粧やら、家の片づけやら、しなければならないことが段違いに多いのよ。それくらい言わなくても察してくださらない?」

「はいはい。承知しましたよ。」

口ではママに勝てっこないとわかっているくせに、パパはよくママに突っかかっている。

ママはパパを叱るときだけ、パパの名前を呼ぶ。

パパはそれが嬉しくてわざとそんな戯言を繰り出す。

要するにママに甘えているのだ。

ようやく支度をすべて終えたママは、パパの新聞を取り上げた後、ピンク色のキーホルダーがついた鍵を握りしめた。

「じゃあつぐみ、行ってくるわね。お金を置いていくから、夕食はテイクアウトしてもいいし、なにかお店で買ってきてもいいし、適当に済ませて頂戴。夜は戸締りと火の元の点検を忘れないでね。」

「はーい。」

「なあに?その気のない返事。もう高校生なんだからちゃんとしてよ?」

「わかっているってば。」

「それじゃ行ってきます!」

「行ってらっしゃい。」

私は玄関まで両親のあとを付いて行き、扉をあけて家を出て行くふたりに手を振った。

誰もいないリビングにひとり残された私は、私の膝の上にのそりと乗ってきたモモを抱きしめながらソファーに深く沈みこんだ。

モモの体温が温かい。

でももっと温かいなにかに包まれたい。

まるで深海に潜ったようなひとりきりの午後。

テレビを付けようとリモコンを探すけれど、なかなか見つからない。

キッチンの脇にあるゴミ箱の上にあるのをやっと見つけ、リモコンの電源ボタンを押した。

液晶パネルの向こうでは、ワイドショーが映し出され、大阪弁で話す司会者が、歌舞伎俳優と国民的女優との恋愛ニュースについて、大きなボードを使って考察していた。

ボードには黒いキャップで俯き加減に顔を隠すジーパン姿の男性と、大きなマスクをつけたロングヘア―でシルクのワンピースを着た女性の、微妙な距離を保ちつつ少し猫背気味に歩く白黒写真が、大きく拡大されて貼られてあった。

「おふたりは長きにわたって友人関係を続けていましたが、女優である藤崎萌香さんの熱い想いが実を結び、昨夜おふたりが、愛の巣である高級マンションから、肩を寄り添い出てくるところを文秋の記者が激写し、お泊り愛が発覚いたしました。おふたりの事務所関係者の話では、プライベートなことは本人に任せているので、特に報告は受けていないということです。コメンテーターの中条さん、このふたりの恋愛についてどう思われます?」

いつもは小難しい社会情勢について語るコメンテーターが、べっ甲眼鏡のふちを上げて発言する。

「わたくしはこういったことには門外漢なのですが・・・とてもお目出たいニュースなのではないでしょうか?おふたりとも長きにわたって少しづつ愛をはぐくまれてきたのでしょう。実にお似合いのカップルだと思いますね。」

「そうですよね。私たちも引き続き、おふたりの今後を温かい目で見守っていきたいと思います。」

今までの私ならこんな芸能人の恋愛に関するニュースなんてまったく興味を持てなくて、他に報道することがあるでしょ、なんてうそぶいていた。

けれど今はこのニュースの内容に食いついて、真剣に観ている自分に気付く。

・・・友人から恋人へ。

まるで鹿内さんと美也子さんの関係みたい。

こんなニュース観たくもないのに目が離せない。

私はワイドショーの熱愛報道が終わると、リモコンで他のチャンネルをいくつかザッピングした。

別のワイドショーではお隣の北の国が放った核弾道ミサイルが日本海に放たれたという。また別のチャンネルでは某有名通販会社が健康食品を、味よし香り良し値段もお買い得と自画自賛している。そしてまた別のチャンネルでは身分を隠した偉いお爺さんが、腕のたつお供を従えて諸国を漫遊し、悪者に印籠をみせ土下座させる時代劇ドラマが写しだされた。

「これでいいか。」

私は茨城の旧地名を持つその老人が、分かり易い悪人達を一喝で裁く様をぼんやりと眺めた。

人間の心もこんな風にバッサリとけりがついてしまえば、悩みなんてなくなるのに。

良いと思ってしたことなのに、その自分がその結果を良く思っていないなんて、どうかしている。今までの私は嫌いなものは嫌い、好きなものは好きと白黒はっきりした世界で生きて来た。

教科書で教えられた正解を勉強してノートに書いて暗記して、満足できていた。

鹿内さんが誰かを愛することを望んでいたはずなのに、それを一番喜ばなければいけないのは他の誰でもない自分のはずなのに、気持ちのベクトルは逆方向へ進んでいく。

モモはとっくに私の腕の中から抜け出し、ボールのおもちゃで遊んでいる。

モモはいいな。

何も考えず、無条件で、鹿内さんの腕の中へ飛び込んでいける。

ううん。無条件に鹿内さんのことを受け入れなかったのは私。

鹿内さんを自分ではなく、他の女性の元へと背中を押したのも私。

でもあんなに自棄になっている鹿内さんを受け入れてしまったら、私は未来永劫きっと後悔すると思ったのだ。

一時の衝動で選ばれても、きっといつかは心に大きな穴があいて、その深く暗い穴から抜け出せなくなる。そして本当の鹿内さんの姿は輪郭をとどめなくなって、私の前から霧のように消えてしまうのだ。

・・・でも。

今は気まぐれな欲望の捌け口でもいい。

ただただ鹿内さんのそばにいたい。

その声を聞きたい。

切実にそう願う自分がいる。

私は間違えたのだ。

私は完全に変わってしまった。

元の私に戻れなくなってしまった。

テーブルには、ママが置いて行った夕飯代のお札3枚が置かれている。

どうせ鹿内さんは今日も遅く帰ってくるのだろう。

わたしひとりなら、夕飯なんかいらない。

食べたいものなんて何もない。

もうなにもかも、どうでもいい。

最近の私は、ベッドに入っても無意識的に玄関のドアが開けられる音に耳を澄ませてしまい、慢性的な寝不足が続いていた。

急に瞼が重くなり、私はまた暗黒の世界に堕ちていく。

夢の中の私はいつも何かを探し、追い求め、彷徨い、そして絶望する。

ねえ、鹿内さん。

あなたの悪夢はどんな風にあなたを苦しめていたの?

今はもう悪夢をみることがないくらい幸せ?

ふと目が覚めると窓ガラス越しの空は薄墨色に染まり、太陽は地球の裏側に向かって進み、

その紅色は地平線に溶けていた。

ソファーからむくりと身を起こすと、音もなく床にクマさん柄のタオルケットが落ちた。

・・・私にタオルケットを掛けてくれたのは誰?

そんなことをしてくれる人物は一人しか思い当たらなかった。

さりげない優しさが胸いっぱいに広がって、さっきまでの憂鬱な気持ちが消えていく。

こんな日に限って、鹿内さんは早めの帰宅をしているらしい。

私はハッと息を飲み、テーブルに置かれたお札を財布にいれ、エコバックを片手にあわてて家を飛び出し自転車のサドルに乗った。

きっと鹿内さんはバイト続きでロクなものを食べていないに違いない。

全速力で自転車のペダルを漕ぎ、駅前のスーパーマーケットに向かった。

もどかしい思いでスーパーの自動ドアから店内に入る。

夕方のスーパーマーケットは買い物をする主婦達の主戦場だ。

私は人込みをかき分け、野菜売り場でじゃがいもニンジン、玉ねぎをカゴに次々と放り込んでいく。冷蔵庫の中に豚肉の残りがあったから、今日の献立は肉じゃがにしよう。

そうだ。きっと居酒屋の賄いだけじゃ野菜不足に決まっている。

さっぱりしたサラダも作ってあげたい。

あれもこれもと思って品物でいっぱいの買い物かごをレジに置いて清算を済ますと、支払額はママからもらったお金で丁度足りた。

一応計算しながら買い物したつもり。

ギリギリセーフ。

家に戻ったのは夕方の6時過ぎだった。

今夜の献立は肉じゃが、カレイの煮つけ、ほうれん草のお浸し、ツナサラダ。

たまには家で和食でも食べたいに違いない。

少しでも鹿内さんの癒しになれたらいいな、とただ単純にそう思った。

私はエプロンを付けて台所に立ち、いつになくテキパキとじゃがいもやニンジンを刻み、豚肉を炒め、醤油や砂糖を計量スプーンを使って丁寧に味付けした。

誰かのために料理をするのは、久しぶりだった。

台所はママのお城みたいなもので、ママがそのお城の女王様なら、私はただの小間使いだ。

でも私だって中等部では料理研究部に所属していたぐらいだし、それなりのおかずは大体作れると思っている。

私も将来、私だけのお城で大切な人に料理を作ってあげることが出来るのだろうか?

その大切な人が鹿内さんだったらいいのに。

・・・とそんな叶えられそうもない未来を夢みている自分がいる。

料理をしている間ずっと息を殺していた私は、ようやく全ての献立を作り終えると、はあっと大きく息を吐き出した。

自分では上手く作れたとは思うけれど、鹿内さんの好みの味が判らないのが不安だった。

濃い口が好きなのか、それとも薄口がいいのだろうか。

お肉は柔らかめの方がいいのか、それともコシのあるのがお好みか。

鹿内さんなら何でも食べてくれるに違いないけど・・・。

私はさっそく二階にあがり鹿内さんの部屋を三回ノックした。

「はい。」

いつもの不愛想な声が返ってきた。

幸い今日は眠ってはいないようだ。

「あの。夕食の用意が出来ましたけど。」

ドアの外から声を掛ける。

「今行く」

という声と同時に鹿内さんがドアから顔を出した。

「おう」

鹿内さんはそれだけ言うと、私と目も合わせずに横をすり抜け、一階へと降りて行った。

「あれ?君のパパさんとママさんはどうした?」

がらんとしたリビングにやっと普段と違う空気を察したのか、

鹿内さんはきょろきょろと辺りを見渡した。

「パパとママは用事で新潟に出かけてしまって、明日の昼頃帰ってくるそうです。」

「じゃあ、夕飯は」

「私が作りました。」

「へえ。ちゃんと食えるんだろうな?」

「当たり前です!」

私は鹿内さんの茶碗に大盛りのご飯をよそい、それを手渡した。

「つぐみの手料理を食べられるとは思わなかった。嬉しいよ。」

「私、こう見えても料理は得意なんですよ?」

「うん。知っている。」

あれ?私の手料理を鹿内さんに披露するのは今日が初めてのハズだけど。

自分用のご飯を茶碗によそい席に着くと、両手を胸に合わせた。

「いただきます!」

「いただきます。」

同時に掛け声がハモって、どちらからともなく笑い合った。

久しぶりの鹿内さんとの食事と会話。

「ん。美味い。」

「よかった!大したものは作れないんですけどね。味、薄くないですか?

それとも濃すぎるとか・・・大丈夫ですか?」

私は勝敗の判定を待つスポーツ選手のような気持ちで、鹿内さんの言葉を待った。

「いや、丁度いい。すごく美味しいよ。」

「よかった!結構不安だったんですよ。お口に合うかどうか。」

私はこの間のことなど忘れたかのように、平然と振舞ってみせた。

鹿内さんも何事もなかったかのように、私に接してくれている。

少なくても鹿内さんの中では、本当にもう何もなかったことになったのだ。

私は学校での生活のことや最近のモモの様子を、機関銃のように話し始めた。

今、ふたりきりのこの時を、楽しい話題で埋めつくしたかった。

「この前の放課後、学校の校庭に犬が入ってきちゃったんです。

大型犬だったんですけど、飼い主さんがロープを手放しちゃったんですって。

私、裏庭の掃除当番だったんですけど、ホウキを放り投げてその犬を抱きしめちゃった。」

「へえ。俺のバイトしている酒場にも、たまに猫がエサをねだりにくるよ。」

「そういうときってどうするんですか?」

「店長に内緒でこっそり余った食材を分けてやる。

猫って普段はツンツンとして近寄ると爪を立ててくるくせに、美味しいエサを嗅ぎつけるやいなや、可愛い鳴き声ですり寄ってくるんだ。まるで誰かさんみたいだな。」

「誰かさんって誰ですか?」

「誰だろう?」

「まさか私のことじゃないでしょうね?」

「さあね。」

「私はエサになんかにすり寄りませんから。」

「あれ?ディズニーランドへついて来てほしいと、泣きそうな声ですり寄ってきたのはどこの誰だったっけ?」

「あれは・・・仕方なくです!」

何気ない話がとても楽しくて、いつまでもこの時が続けばいいのに、と時計の針が進むのを憎らしく思った。食事がひととおり終わり、私は茶碗類を片付け始めた。

「俺がやるよ。皿洗いはバイトで慣れているから。」

「いえ!今日はゆっくりしてください。毎日バイトで疲れているんでしょうし。」

「そうか?・・・じゃあお言葉に甘えて」

私は鹿内さんの口に触れた箸やスプーンをまるで宝物を扱うようにひとつひとつ心を込めて洗った。

その間、鹿内さんはいつものようにベランダに出て、煙草を吸っていた。

私が皿洗いを終えると、鹿内さんはベランダからリビングに戻って来た。

「・・・それにしても俺は、君のパパとママによっぽど信頼されているんだなあ。」

腕を組み、鹿内さんは苦笑いした。

「なんでですか?」

「俺だって男なんだよ?なのに大事な娘を狼のいる家へ置いていくなんてさ。

それとも俺、男として認識されてないのかな?」

そう言われて初めて私は、今夜はこの家で鹿内さんとふたりっきりなんだと気づいた。

「・・・何言っているんですか。どうせ私のことなんて女として見てないくせに。」

「そんなことない。俺は初めからつぐみの事、女として見ている。」

「え・・・?」

それがどう意味なのか、何を言われているのか、よくわからなかった。

「ま、私も生物学的には女ですものね。」

「ちゃんと異性として意識している。」

「じゃあ鹿内さんは私のことも大嫌いですか?」

「嫌いなら彼女役なんて頼まない。」

「そういうとこですよ。その気もないのに思わせぶりなこというの止めてください。」

「どうしてそんなふうに決めつけるの?つぐみはこの前、俺に逃げているとかなんとかと説教したけど、逃げているのはつぐみの方じゃない?」

「私は何からも逃げていません。」

鹿内さんと向き合うと、心とは裏腹にそんな反抗的な言葉しか出てこない。

そんな私の言葉に鹿内さんは黙り込んでしまった。

どうしてこう私は素直じゃないんだろう。

どうして美也子さんみたいに、ただ真っすぐに好意を伝えられないんだろう。

だから私は妹以上になれないんだ。

私は沈黙を破るように、鹿内さんの背中を押した。

「そんなことより珍しく早く帰ってきたんだからゆっくり休んでくださいね。

ではおやすみなさい。」

私が部屋に戻るために階段を上ろうとすると、ふいに鹿内さんが私の手首を掴んだ。

「つぐみ」

すばやく立ち去ろうとする私に鹿内さんは何かを告げようとしていた。

私は立ち止まり、振り返った。

「・・・いや、何でもない。」

「・・・・・・。」

「つぐみ、もう俺の彼女役を降りていいよ。」

「え・・・?」

「一旦、関係をリセットしよう。」

「リセット・・・?」

「今までありがとう。本当に助かったよ。もう大学で女に声を掛けられることもなくなったし、身辺はすっきりした。今度、ママさんのマグカップを買ってやるよ。」

そう言うと鹿内さんは私の手首を離し、顔をそむけた。

「そう・・・ですか。それは良かったです。わかりました。でもマグカップはやっぱり自分で買います。」

私はまるで判決を突き付けられた罪人のように、目線をゆっくり落とした。

ああそうか。

やっぱり鹿内さんは美也子さんと結ばれたんだ。

だからもう偽の彼女はいらなくなったんだ。

さっきから目をあわせてくれないのは、きっとそれが気まずいせいなんだ。

色んなことがストンと心に収まる。

・・・でもまだ聞きたい言葉を聞いていない。

ちゃんと美也子さんと付き合うことになったって告げて欲しい。

鹿内さんの恋を喜んで聞いてあげる、そんな覚悟ならもう出来ている。

ううん。そんな話、聞きたくない。

耳を塞いで、どこかへ逃げてしまいたい。

相反する気持ちを持て余した私は何も言えず、鹿内さんの最終宣告を、ただ待っていた。

でも・・・いつまでたってもその言葉は貰えなかった。



私は以前調べた「恋」というものの定義を思い出していた。



「恋」

ある人を好きになってしまい、寝てもさめてもその人のことを考えてしまうこと。

他のことが手につかなくなり、身悶えしたくなるような心。



そうか。この気持ちは「恋」なんだ。

最近鹿内さんのことばかり考えてしまうのも、ひとつも残らず鹿内さんの言葉や態度を拾おうとしているのも、「恋」という感情のせいなのだ。

そんな簡単なことを何故今まで気が付かなかったんだろう。

ママはパパを「心の穴をふさいでくれる人」だって言っていた。

私の心の穴をふさいでくれたのは鹿内さんだ。

でも鹿内さんの心の穴をふさいであげられるのが、どうして私じゃないのだろう?



「夕食ありがとう。美味しかった。・・・おやすみ。」

背中を向けた鹿内さんは、それだけ言うと階段をあがり部屋へ戻っていき、

小さくバタンと扉を閉める音が聞こえた。

それは私から鹿内さんへと続く心の扉が閉じられ、

鍵をカチャリと固くかけられた音のようだった。

恋を自覚した途端、すでにその恋の道は行き止まりの崖の上だったなんて、神様はなんて残酷なんだろう。

崖から飛び降りることもできず、だからといってもう後ろへ引き返すことも出来ない。

私と鹿内さんの、もう2度と訪れることのないだろう、ふたりきりの夜。

いっそ崖からこの身を落とし、波に叩きつけられ、声を失くした人魚姫のように泡となって海に沈んでしまおうか。

つぎの瞬間、大きな波に押し流されるように私は階段を駆け上った。

固く閉ざされた鹿内さんの部屋の前で立ちすくむ。

私の右手がドアにそっと触れる。

今、この扉を叩いたら、鹿内さんは私を部屋のなかに招いてくれるだろうか?

鹿内さんはいま何をしているの?

誰を想っている?

もう今までみたいに気軽にこの扉を開けることが出来ない。

その扉は重く冷たく、私の目の前を立ち塞ぐ。

私は震えるこぶしをドアに押し付け、しばらくそのままの姿勢で固まった。

でも結局、握りしめたこぶしを叩く勇気も持てないまま、ドアから離し、静かに振り下ろした。

肩を落とし階段を下りて、誰もいない静まり返ったリビングへ戻った。

そこは空っぽになった抜け殻のような空間だった。

幸福の木と言われるドラセナの葉だけがリビングの隅で、私を励ましてくれているようだった。

ベランダにでると、いつも鹿内さんが煙草を吸っている場所に佇んで、煙草を吸う真似をしてみた。
そして少し欠けている白い月を眺めながら、あふれそうな涙を必死にこらえていた。