――『奏雨』


「っ!!」


目を閉じて、子供の頃の数少ない幸せな思い出に浸ろうとしたとき。

耳元で呟かれた声が鮮明に聞こえてきて、上体を起こして机から身体を離した。


「……な、な……な……っ!?」


これ以上入ってこないように、塞ぐように、耳に手を強く当てる。
奈冷やお兄ちゃん以外に、男の人に名前を呼ばれたことはない。

わたしの周りにいたのは「雪杜」のことを知っている人たちだったし、そもそわたしが周りとの間に壁をつくっていたせいもあり、たいていの人はみんな名字呼びだったから。


それがどうだ。

小日向花暖は初対面でわたしのことを「奏雨ちゃん」と呼んでくるし
その周りの連中も彼女に便乗するように名前で呼んでくる。

奈冷との付き合いがあるはずなのに、あの人達は「雪杜」のことを知らないのだろうか。

それとも、知っててわたしにあんな態度を……?


奈冷は、いつもあんな人たちに囲まれていたのか。


「…………」


耳だけじゃない、顔も、身体も熱い。

はじめての感情に戸惑う。
こんなのわたしは知らない。

自分の感情だというのに、どうしてこんなにも理解できないんだろう。


「なんなのよ……」