「信じてもらえないかもしれませんが、私、昨日澤田君と会って、色々話をしたんです」

 やはり唐突すぎたのだろう。

 沙耶子さんは言葉を失っていた。

 なんだか気まずくて私はモジモジしてしまう。

 沙耶子さんは私を見て困ったように眉根が少し下がっている。

 それでも様子を窺いながら、決して邪険にはしなかった。

「どんな事を話したのか聞かせてもらえる?」

 できるだけ穏やかに、沙耶子さんは接しようしている。

 本当はこんな突拍子もないことを言われて、私を追い出したいかもしれない。

 でもまだ気になる部分が大きかったのか、沙耶子さんは話が聞きたいと訊く耳を持とうとしていた。

「その、えっと」

 何から話していいのか迷っている時、視線をあちこちに向けているとテレビの台の棚の中にDVDがあるのに気がついた。

 『ノートルダムの鐘』って背表紙に書いてある。

「あっ、あれはカジモド。澤田君の好きなDVD」

 私が呟くと、沙耶子さんの表情に変化があった。

「子供の頃、あれを何度も観てたんですよね。澤田君」

「ええ、そうだったわ」

 事故にあってからも観直したといってたけど、それはこの世界では実現されなかった。

「智世さん、そのDVDにはノートルダムの鐘って書いてあるのに、どうしてカジモドって……」

「えっ、あの、澤田君、カジモドが好きだったので、それで」

 沙耶子さんの琴線に触れたように、目が見開いて驚いていた。

「あの子もね、そのDVDをカジモドって呼んでたの。何がそんなに面白いのか、私にはわからないんだけど、あの子なりに何かを感じて観ていたの。色んなかわいい、またはかっこいいキャラクターのアニメはいっぱいあるけど、こんなに現実的に醜いキャラクターが主人公なのが面白かったみたい。それでいて主人公は純粋だから、応援したくなったのかもしれない」

「私が出会った澤田君は、事故で右足を膝の部分まで失ってしまって、義足をつけてました」

 私は沙耶子さんの様子を窺った。

 まだ困惑している。

「自分の姿をカジモドに例えて、足を失ってしまったけど一生懸命生きたいって、カジモドのようになりたいって、なんでも前向きに捉えてました。どんな困難もチャンスだって、絶対にめげないんです」

 沙耶子さんは正座をしながらぐっと体に力を入れた。

 震えるように、黙って話を聞いていた。

「私たち、不思議な空間に閉じ込められたんです。澤田君がいうには、パラレルワールドって言ってました。決して出会うことのない世界の私たちが出会ってしまった。澤田君の世界では私が事故に遭って死んでいたそうです」

 沙耶子さんが「はっ」と息を飲んだ。

「澤田君は私のことずっと前から知っていて、その……」

 ここまで言った時、沙耶子さんの気持ちが和らぐのを感じられた。

「あなたが、隼八の初恋の女の子なのね」

「えっ?」

 私は、ドキッとして顔を上げた。

 沙耶子さんは泣きそうになりながらも、笑みを浮かべている。

「ええ、隼八が亡くなったとき、友達の哲君が私に教えてくれたの。猫を通じて好きになった女の子がいる。ずっと話したいと思っていたけどなかなかそれができなくて、それで哲君が隼八を手助けしていたって」

「哲君……、あっ、澤田君の親友だ」

「信じがたい話だけれど、隼八が本当に別の世界で生きているのなら、私は嬉しいわ」

 どこまで私の話が本当だと思ったのかはわからないけど、少なくとも私に出会えた事は喜んでくれているのがわかる。

 沙耶子さんは私の手を取り「ありがとう」と言って、目じりから涙を一筋流していた。

「それと、あの、アルティメットおにぎり」

「あっ、それは」

「澤田君が子供の頃、ほうれん草が嫌いで、それを沙耶子さんが工夫しておにぎりに入れたんですよね。ほうれん草、梅干、ゴマ、粉チーズ。特に梅干は、はちみつ梅がおいしいって。そのおにぎりが一番大好きな食べ物だって。そしてお母さんの作る料理はとても美味しいって」

 沙耶子さんの目からぽたぽたと大粒の涙がこぼれていく。

「そのおにぎりの作り方教えて下さい。分量はどれくらい入れれば、澤田君の好きな味になるんですか?」

 沙耶子さんは気持ちが高ぶってとうとう泣いてしまった。

 今までもたくさんたくさん泣いてきただろうけど、その泣き方は悲しいというよりも、嬉しくて泣いているように見えた。

「ええ、いいわよ。だったら、今から一緒に作りましょう」

 台所ではやかんから沸騰した蒸気が勢いよく立っていた。

 そんな事はもうどうでもいいかのように、私たちは澤田君の写真を一緒に見つめた。

 沙耶子さんからエプロンを借りて手を洗った後、私たちは一緒に台所に立った。

「おにぎりだから、そんなに難しくないんだけどね」

 沙耶子さんはカップでお米を計り、それをボールにいれた。

「えっと、お米はまず二カップですね」

 それを見て私は確認する。

「まずは、作りやすい分量ね」

 沙耶子さんはそういって、手早くお米を研いでいた。

 それを炊飯器に入れ、暫く浸水させた。

「次はほうれん草をゆでます」

 予め鍋に水を入れ火にかけていたものがぐらぐらと湧き上がっていた。

 塩を入れて洗ったほうれん草を鍋に放りこむ。

「大体どれくらいゆでるんですか?」

「一分程度でいいのよ」

 沙耶子さんの手は白くて、指先が細く綺麗な手だった。

 澤田君がお母さんの料理が美味しいって言う意味が、その手を見ているだけで伝わってくる。

 ほうれん草は鮮やかな緑色をして茹で上がり、それを冷水につけた。

 そして白い手はほうれん草をぎゅっと搾る。

 絞った後はまな板の上に置いた。今度はそれを細かく切っていく。

 途中まで切ったあと、手を止めた。

「智世さんも切ってみる?」

 何もしないで退屈していると思ったのかもしれない。

「はい」

 沙耶子さんのようにスームズに手元が動かないけど、ゆっくりと切っていく。

 沙耶子さんはとても温かく私を見守っていてくれた。

 もう少し、お米に水を吸わせたかったけど、時間の関係で炊飯器のスイッチを入れた。軽やかなメロディが鳴っていた。

 出来るだけ細かくといわれたので、ほうれん草のみじん切りに奮闘していると、沙耶子さんは冷蔵庫からタッパーを出した。

 蓋を開けると梅干が沢山入っていて、口の中が酸っぱく感じた。

 一粒が大きくて、果肉がとてもやわらかそうだ。

 優しい杏色をしていて、これははちみつ梅に違いない。

「梅干はいくつ使うんですか?」

「そうね、この大きさだと三、四個くらいかがいいかな。梅の果肉次第ね。ペースト状にして大体大さじ二杯くらいあればいいの。隼八は沢山入れた方が美味しいっていってたわ」

 細かく切ったほうれん草、梅干のペースト、粉チーズ、最後に胡麻を用意した。

 ご飯が炊き上がるまでまだ時間があった。

 その間、沙耶子さんとテーブルについてお茶を飲んで話をした。

 沙耶子さんが不思議な空間での澤田君と私の話を聞きたがったので、最初からどういう経緯でそれが起こったのか話した。