もともとあんなものを送ってくるくらいだから、こんな言葉が響くとは思えない。
 それがわかっていても、波那は言わずにはいられなかった。

 しかし案の定というか、真美は少し首を傾げただけで波那を宥めるような口調で返してきた。
「でも、仕方なくないですか? 私も雅人さんも、お互いを好きって気持ちが止まらなくなっちゃったんです。…そりゃ、奥様を傷つけたのは申し訳なかったですけど、人の気持ちって縛りつけられないじゃないですか。手っ取り早くわかってもらおうと思って、アレを送ったんです。あ、もちろん不倫の証拠になるってわかってますよ。いざとなったら慰謝料は払うつもりです!」
「お金の問題じゃないわ!」

 波那が思わずきつい声を上げても、真美は話をやめなかった。

「それに、私は家庭を壊すつもりもありません。もし奥様さえ良ければ、このまま雅人さんと家族みんなで今まで通り生活してくれれていいんです。…本当は今日はこれを言いに来たんですけど。」
「……何を言っているの?」
「だから、今まで通りです。雅人さんと私は愛し合うし、雅人さんは家庭も大事にする。今回みたいに時々は雅人さんと一晩中過ごしたいですけど、基本はご家族のもとにお返しします。雅人さん、子どもさんたちのことは本当に大切に思ってるから、取り上げたくないんです。もちろん、子どもたちのお母さんである奥様のことも大事にするはずですよ。」
 ね、今まで通りでしょ?
 と真美はにっこり微笑んだ。

「私、雅人さんを愛してるので。結婚なんて形に囚われないです。奥様もそれなら経済的な不安も無くなるし、体裁も整うし、いいこと尽くめですよね。」


 波那はその頬を思いきり張りたい気持ちを必死で抑え、怒りに震える手を膝の上で握りしめた。

「…あなたにそんなことを言われる筋合いなんてこれっぽっちもないわ。どうしてそう上から目線になれるの? …私の知ってる雅人が、そんな案に乗るとは思えない。もしも…」

 一つの覚悟のために、波那は一呼吸おいた。
 …大丈夫。これは絶対に軽はずみな言葉なんかじゃない。


「…もしも、雅人もあなたの言う非常識な生活を望んでいるというなら、それはもう雅人じゃないわ。気持ちの悪い恥知らずなだけ。そんな男、こちらから願い下げよ。あなたとはお似合いだから、きちんと責任をとった上で2人の世界に浸ればいいわ。」

『気持ちの悪い恥知らず』のくだりから真美の薄ら笑いがなくなった。

 人に睨みつけられて溜飲が下がるなんて生まれて初めてだ…

 波那は少し落ち着いた目で真美を見返すと、初めてコーヒーに口をつけた。

「…雅人さん、もしも奥さんにバレたら私とは別れるって言いますよ。…でも、私たちは別れられません。だって、愛し合ってるんですから。…バレないようにするだけです。」

 奥様から奥さんに呼び方が変わったな。
 結局雅人のこともずっと名前呼びだし。

 波那は何度目かになる溜息をついた。

「バカね。そんなことをここで言っても、自分たちの首を絞めるだけでしょう。…それに、バレても家庭を捨てないって思ってるのに、自分が一番愛されてると信じられるものなの? …もう帰るわ。やっぱり時間の無駄だった。」
「なっ… 取り乱しもしないなんて、そんなに冷たいから雅人さんに愛想尽かされたんじゃないですかっ」
 
 興奮し始めた真美を無視して波那はテーブルに置かれたレシートをとると、一人立ち上がってレジに向かった。



「雅人さんはお母さんみたいに家族を捨てることに罪悪感を持ってるだけです! それがなかったらとっくに私を選んでるんだから!」


 最後にかけられた言葉に波那の思考がぴたりと停止した。

 なんとか足取りだけは止めずに会計を済ませて店を出る。





 数歩歩いたところで、堰を切ったように涙が溢れてきた。
「…っふ、くっ…」


 きつく口元を抑えても小さく嗚咽が漏れる。
 目立たない路地裏に飛び込んだ。


 


 雅人… 雅人、雅人。

 どうしてあの子が雅人のお母さんの話をするの。
 どうしてそんなこと知ってるの。


 どうして…