揺れる夾竹桃

プールから上がり、私たちはプールサイドのベンチに座っていた。初めての夜を過ごしたあのベンチだ。今日も左隣の真城に自販機で買ったピーチソーダを渡し、自分はスポーツドリンクを飲んでいた。しばらく時間が経っているものの、何度も果てたおかげでまだ脱力してしまう。真城も疲れきったようで背もたれに身体を預けきっていた。プラチナの髪は普段と違う色を見せていて新鮮だった。濡れたラッシュガードが華奢な身体に張り付き、照明の具合で妙に色っぽい。
ふと、ラッシュガードのファスナーの隙間から胸元が見えた。私はあれ、と思いファスナーを下げてはだけさせた。
「七瀬、タトゥー入ってたの?」
「そだよ。」
真城の左胸、ちょうど心臓の位置にそれはあった。白黒の大きな花のタトゥーだった。思い返せば前の夜は2人とも着衣のままだったし、今日はラッシュガードを着ていて、今まで真城が着替えているところを見たことがない。
「綺麗…。」
私は思わず見惚れてしまった。心臓に美しく咲く妖しげな花が真城のイメージとぴったりで、むしろ象徴と言っていいほどの魅力を放っている。
「ありがと。」
真城は優しく微笑んでいた。
「これなんの花?」
「夾竹桃。」
「キョウチクトウ?」
聞いたことのない名前につい馬鹿っぽい聞き方をしてしまった。
「うん、生命力が強すぎる花だよ。焼け野原になった広島に最初に咲いた花って言われてるし。」
「えーそんなすごい花なんだ。」
「あとね…。」
「うん?」
真城の目が鋭く光る。
「凄まじい毒を持ってる。花だけじゃなくて周りの土も、燃やした時の煙も全部毒。」
優しい表情のまま語る真城に思わず呑まれそうになる。恐怖と美しさは紙一重なのかもしれない。私は自分の中で真城を毒のある花に例えていたが、本人もそう自認しているということだろうか。そのあたりのことを聞くのは野暮かとも思ったが、掴みどころのない真城のことをもう少し知っていたかった。
「なんでこの花にしたの?」
「似合うでしょ?」
間髪入れずに真城が返す。飄々とした様ははぐらかしていることの裏返しだろう。本人なりの意味を持たせているに決まってる。
「ちゃんと教えて。知りたいの。」
私はなるべく真剣さが伝わるようにはっきりと言葉を発した。真城はそれをくみ取ったようで、少しずつ自分の話を打ち明けてくれた。
「5年くらい前だけど、好きだった女性(ひと)がいたの。小悪魔通り越して悪魔みたいな女だったけど、他を寄せつけない程の美人で、心底惚れてた。まぁ向こうにとっては暇つぶしの1人だったと思う。」
初めて知る真城の過去、全容を聞いたわけではないがなんとなく想像できてしまう。きっと真城はそういう傷を負っているんだろうと薄々は思っていたからだ。
「その人も胸にタトゥー入れてて。月下美人っていう花と戯れる黒猫のタトゥーだった。それが本当に艶かしくて。頭に焼きついて離れなかった。だけど自分のことを月下美人に例えてるのがなんか悔しかった。」
10代の頃とはいえ、いつだって飄々としている真城をここまで虜にできるとはどれほどの人なんだろう。現実味が薄いせいか、悔しさよりも興味が勝っていた。
「あの人は俺のことを毒って言った。相手に入り込んで内側から侵して気づいた時には手遅れだって。ムカつくけど言い得て妙で納得したよ。でも俺は自分が花になりたかった。だからあの人になぞらえて毒花の夾竹桃を同じ位置に入れたの。」
若き真城の心情は手にとるように理解できた。何かを突き刺したような傷みが胸を貫く。
「そっか…。その後その人とは?」
「これ見せた日に捨てられた。毒は扱いきればただの薬、あなたは私の毒にはなれないって。」
「それは…ひどいね…。」
「まぁ仕方ない。さすがにうざったくなるのもわかるし、俺が勝手に足掻いてるだけだから。言い回しはなんかイラッときたけど。」
言いながら真城がいつもの表情でクスクスと笑う。彼の心はまだそのポエマーのような女に囚われているのだろうか。
「横山さんに言った好きな人ってその人?」
「違うよ。別の人。」
真城がはっきりと答える。含みがあるようには思えないし、どうやら本当に違うようだ。ただ好きな人がいるのも本当なのだろう。今の真城が恋心を抱くのはどんな女性なんだろうか。
「…どんな人?」
私は恐る恐る尋ねた。真城はクスクスと笑うとラッシュガードを脱いですっと立ち上がり、ゆっくりプールに向かって歩き出した。プールの端に立つとこちらに振り向く。優しい表情の真城と真っ直ぐ目が合った。すると真城はそのまま後ろに倒れていった。ドボンっと水しぶきが上がり、突然の行動に驚き思わず立ち上がってしまったが、真城はすぐに水面から顔を出した。
「美咲希が好きだよ。」
優しい表情のまま真城が今までで一番真っ直ぐに言葉を発する。私は気づくべきだった。真城は私にしか見せない表情がたくさんある。自分への言い訳のために真城も遊びのつもりだと決めつけていた。罪悪感は自分と夫に抱いていたもの、真城の気持ちを私は見ていない。きっと真城のことだからそのこともお見通しだったのだろう。それでもこの関係を続けようとしていたのだ。シンプルな恋心を胸に秘めたままで。
私はゆっくりと息を吐いた。伝えるべき言葉は決まっている。私たちに本気はない。あってはいけない。水面に揺れる夾竹桃の美しさが、私を奈落へ引きずり込むようだった。