「例えば、さる御方からの嫌がらせの数々をものともせず、あなたと結婚できるという女性がいたらどうでしょうか?」

ありえない問いかけにラルフはふっと表情を和らげた。理想を語るのは時間の浪費としか思えないが、唯一の希望が潰えた今となっては悪くない。

「そうだな、それは助かるな。ぜひ今すぐ結婚してもらいたいくらいだ。ああ、でもほとぼりが冷める数年でいいな。私が欲しているのは本当の妻ではなく、婿に行かなくても良い理由なのだから」

「結婚はあくまで偽物でないと困るということですか?」

「そうだ」

「まあ!!更に好都合ですわ」

マリナラは嬉しそうに目を細めニコリ微笑むと、長い睫毛が小さく震えた。しばし無言で交わされる視線の意味をラルフはまだ知らなかった。

マリナラは威勢よく己の胸に手を当てるとこう言い放った。

「1億ダールご用意頂ければ、この私が殿下の結婚相手になりましょう」

あまりにも突拍子のない話でラルフは息が止まるかと思った。

正気か?と辛うじて怒鳴らなかったのは騎士団の団長という要職についているが故の自制心の賜物である。

「貴方は……私の話を聞いていたのか!?」

「ええ、すべて聞いておりましたわ。すべて聞いた上でのご提案です」

「他国の姫を出し抜いて私と結婚しようというのか!?」

「はい。ついでに殿下を目の敵にされている王城の御方にもこれを機にご挨拶致しましょう」

マリナラの言う挨拶が真っ当なものにならないのは目に見えている。

あろうことかマリナラは一国家および自国の王妃と真正面から対立すると言っているのだ。

ラルフは言葉を失い、しばし茫然としていた。

しかし、すべてを理解すると次の瞬間弾けるように笑い出した。

「……なんと!!なんと大胆不敵なのだろう!!」

ここまで大笑いしたい気持ちになったのは幾年ぶりだろうか。ラルフは呆れるどころか一周まわって、マリナラが次に何を言い出すかすっかり面白くなってきた。

「それで、一体何が目的だと言うのだ……?」

笑いが少し収まってきたのを見計らい、ラルフはマリナラに尋ねた。ラルフとてこれが善意からくる提案だとは夢にも思っていない。

「私は元々社交界のはみ出し者ですし、王妃様の不興を買ったところで困りはしません。1億ダールさえ払っていただければ、雇われ妻として役割を全うするとお約束いたします」

マリナラはドレスを軽く持ち上げ、貴族の令嬢らしく恭しく礼をした。

涼やかなウォーターブルーの瞳に光が灯り、星と間違うほどの眩さにラルフの意識は次第に遠のいていく。

夢と現の狭間で艶やかな黒髪がサラサラと音を立てて流れていく音を聞いたラルフは、無性にマリナラの髪に触れたくなった。

そして、マリナラの一挙手一投足から目が離せなくなっている己に気が付いたのだった。

(どうかしている……)

今日、初めて会ったばかりの女性に対してこんなことを思うなんて騎士たる自分が許せない。

……しかし、どうにも胸のざわめきが止められそうにない。

「し、しかしだな……。貴方のお父上が何と言うか……」

「父は何も言いません。そういう契約ですので」

「それは恐れ入った」

父親であるレインフォール伯爵相手にも契約を交わしているとは、なんと抜け目のない女性だろうか。ラルフは心の中で諸手を上げて降参した。

(さて……)

ラルフは口元に手を当て、しばし思案した。

1億ダールは間違いなく大金だ。

庶民なら一生何不自由なく遊んで暮らせる金額である。王族の端くれではあるが金銭感覚は下級貴族に近いにラルフにとっても大金だ。

しかし、まったく払えない金額でもない。

騎士団入団以来、貯めてきた給金と王族に支給される手当の残りを合わせればおそらく1億ダールにはなるだろう。

本当はエミリアが嫁ぐ際に持参金の足しにでもしようと目論んでいたが、それはまた追々貯めればいい。

支払いを断ることより、どう支払えばいいかを考えている時点でラルフの心は既に決まっていた。

今は1億ダールよりもこの傲慢で自信の塊のような風変りな令嬢を手放すのが何より惜しい。

ラルフは片膝をつきマリナラに跪くとその白くて細い左手を取りキスを贈った。

「貴女を妻として雇う間の安全は保障する。ありとあらゆる魔の手から守るとお約束しましょう」

……これが恋だというのならそれもまた一興だ。

「いいでしょう。契約成立です」

こうしてラルフとマリアナは契約を交わしたのであった。