「……ぱぱ?」

 もちろん希柚にとってもその単語はパワーワードだった。かつて一度だけ尋ねられたことがある。保育園に入って間もない頃だ。

 ”どうしてきゆにぱぱいないの?”

 好奇心を全面に出した瞳の奥にどこか寂しさが見え隠れしていたことを樹莉は気づいていた。そして素直に希柚に「パパはお仕事で外国に行ってるのよ」と教えた。希柚は「そっか」と聞き分けよくそれ以上は訪ねてこなかった。唯一名前だけ聞かれて「すばる」だと教えただけだ。

「…ぱぱ?」
「そうだよ、希柚。お顔見せてほしいな」

 昴の宥める声が希柚の心をくすぐった。希柚がドアの向こうから恐る恐る顔を覗かせる。寝癖のついた前髪がぴょこん、と揺れ、昴が「前髪はねてる」と相好を崩しながら自分の髪を触った。

「…大きくなったね」
「ほんとうに、ぱぱ、なの?」
「そうだよ」

 希柚はペタペタと裸足のまま部屋から出てきた。ピンク色のパジャマのズボンに描かれているうさぎが心なしか嬉しそうに見える。

 それでもまだ完全に信じきれていないらしい。希柚の足取りが次第に重くなり、廊下の途中で立ち止まった。

「…まま、きゆに、ぱぱいたの?」

 不安げな瞳が樹莉を見上げる。樹莉は希柚の元に向かうと膝をついて目線を合わせた。希柚が甘えるように樹莉に抱きつく。

 「…樹莉?」
 「ママ、希柚に『パパは遠いところでお仕事してる』って言ったでしょ?忘れちゃった?」
 
 樹莉は何か言いたげにしている昴の表情をチラッと見て肩に顔を埋めている娘の頭を優しく撫でた。サラサラで細い髪が指の間を塗っていく。誰に似たのか少しくせのある毛は玄関の小窓から差し込む光でより輝いて見えた。
 
「ううん、でも、きゆ、ぱぱみたことないから…うそだとおもってた」

 希柚の言葉尻がだんだん窄んでいく。それと比例して樹莉を抱きしめる細くて幼い腕が「ごめんなさい」と謝っているように強くなった。