樹莉は混乱して頭が真っ白だった。ずっと連絡が取れなかった夫が目の前にいて自分を抱きしめている。昴の胸元についた手が目に入った。薬指で光る指輪が心なしか輝きを増している気がする。思わず両手で突っぱねると昴は少しだけ悲しげに眉を下げた。

 「す、ばる?どうして?」
 「どうしてって…。やっと帰ってこれたんだ。もう少し喜んでくれてもいいだろう?」

 昴は樹莉を抱きしめたまま日に焼けた顔を盛大に顰めた。

 昴の顔立ちは整っている。そして優しさと安心感を感じさせるオーラがあった。それに加えて今年41になる彼の顔つきは、年を重ねるごとに精悍になり、一方どことなく漂う色気がとてもアンバランスだ。甘い顔立ちのなかにある男の色香。日に焼けたせいでさらに男らしさを感じさせた。

 「まま?だれー?」

 そこへ異変を感じたらしい娘が顔を覗かせた。こうした好奇心旺盛なところはきっと父親譲りなんだろう、と樹莉は思う。後日その話を昴にすれば、樹莉似だと昴に言い返されることになる。

「…希柚!」

 昴は大きくなった希柚を見て目を丸くすると顔面が蕩けそうなほど破顔した。メロメロどころじゃない。デロデロだ。驚いた希柚はドン引きする。当然だろう。突然知らない男性から名前を呼ばれたのだ。希柚は部屋の奥にすっ飛んでった。

 昴はそんな希柚の態度に唖然としてしまった。「そんな…」と悲壮感漂う声が狭い玄関に響く。樹莉はその隙に昴の腕からなんとか逃げた。さっきから逃げようとしたものの何気に腕の力が強かった。今はあまりのショックに力まで抜けたようだ。樹莉は昴を突き放す。たたらを踏んだ昴は脚から力が抜けるようにその場にしゃがみ込んで膝をついた。

「…希柚」

 縋るような視線が扉の奥に向けられる。ポツンとこぼれ落ちた悲しみに暮れた声が部屋の中に溶けて消えた。しかし昴はすぐに表情を変えるともう一度、今度は誘い出すような声で娘の名前を呼んだ。

「希柚、希柚ちゃん」

 まるで犬か猫にでもそっぽを向かれた人のようだ。「よーしよし。こっちにおいで」とでも言いたげに昴はなりふり構わず娘の名前を呼ぶ。

「パパだよ、希柚」

 ”パパ”というパワーワードに樹莉はわずかに眉を動かした。昴が希柚に会ったのはもうずっと昔のこと。生まれて間もない頃と、生まれて一年たった頃だ。もちろん今の希柚にその記憶はない。