ある日 バイト先に詩と一緒に出勤すると、いつもにも増して店内が慌ただしかった。


2人でなんだろうと思いながら更衣室に行くと、手前で照山さんに声をかけられた。


「あ!詩!丁度良かった!早く来てくれて助かったよ。

あのさ、今日ちょっと特別なお客様がお見えになることになったから、2人ともいつも以上に仕事がんばってもらいたいんだよね。」

ちょっと興奮気味の照山さん。

わしゃわしゃっと詩の頭を撫でてから親指を立ててポーズを決めてから、事務室に大股で歩いて入って行った。


鼻歌が聞こえる。

余程特別なお客様なのね。

事務室に入っていくご機嫌な照山さんの後ろ姿を目で追う。


それから隣を見ると

髪の毛がかなり乱れた詩が立っていた。

笑いながら手櫛で髪の毛を直している。

「もー!!」

口調は怒っているけど、顔はとってもいい笑顔ですよ。


そんな様子を見ていた苺花も嬉しくなる。


詩にも特別なお客様が誰なのか言ってなかったってことは急遽決まったってことなんだな。


2人で

「頑張ります。」

と元気に返事をする。


特別なお客様って誰なんだろうね。

詩と苺花で顔を見合わせる。


ちっとも思いつかないや。

でも気をつけて仕事しようね。


制服に着替えながらそんな話をする。


着替え終わってから
ホールに行くと、そこにヨルさんの姿があった。

ヨルさんはこちらに気がつくと、おいでおいでと苺花を手招きする。


「こんにちは。お疲れ様です。」

苺花が話しかけると

「こんにちは。お疲れ様。

今日ね、僕の弟みたいな子が来店するんだけどね。

ちょっと特別なんだよね。

VIPルームにご案内してもらえるかな?」

とホール担当の詩ではなく苺花にお願いしてきた。


「え?私ですか??」

苺花がビックリして目をまんまるにしていると

また頭をポンポンしてきて

「うん。

苺花ちゃんの仕事ぶりを見てて信用してるから、お願いしたいんだ。

紹介したいしね。」

とニッコリ微笑んだ。


「、、、はい。」

と返事をしながら

不安な気持ちでそっと詩の方を見ると、詩がその表情に気がついてうんうんとうなづいて見せながら親指でグッドのポーズをしてくる。


さっきの店長さんみたいじゃないの。

がんばれっこと??


思わずプッと吹き出してしまう。


そうか。接客か、、、緊張する。

でもヨルさんから信頼していると言われてしまった。

嬉しいけど大丈夫なのかな。

不安もある。

とにかく、失敗しないように気をつけないといけない。


プレッシャーだ、、、。


苺花は制服のエプロンをぎゅっと両手で掴んだ。

すでに手汗がやばい。



 予約のお客様たちが、スムーズに来店されていつもの営業が始まる。


特別なお客様は地下から専用エレベーターで上がってくるから、そろそろ準備しないと。

時間を気にしながら苺花はソワソワしていた。


ヨルさんの弟みたいな人。

どんな人なんだろう。


怖いけど楽しみでもある。

紹介してくれるっていうのはどういう意味なのかな。


ううん。勘違いしない。勘違いしない。

苺花は呪文のように口の中でぶつぶつと小声で唱える。

唱えながら胸の辺りをトントンと手で叩く。

気持ちを切り替えるように深呼吸して顔を上げる。


ヨルさんが特別に自分にだけ優しい様な気がして、最近本当に勘違いしそうになるのだった。

なので、事あるごとに呪文を唱えているのだ。


勘違いしない!


自分みたいな子どもは相手にしてもらえるはずがないのだ。

ヨルさんは優しいから私の男性恐怖症を心配してくれてるだけなの!と。


予約時間を少し過ぎてから
エレベーターが到着する音が聞こえた。

エレベーター前にヨルさんと一緒に苺花も並び立つ。

背筋を伸ばす。


ヨルさんの弟みたいな人は韓国から来日されたらしい。

「韓国語で喋れたら少し話してみてね。」


なんて言ってヨルさんはいたずらっぽく笑う。

二人で顔を見合わせてまた微笑み合う。


「いらっしゃいませ。」


数人のお客様がみえて
ヨルさんと一緒に歓迎のご挨拶をする。

ヨルさんとヨルさんの弟みたいな人が抱き合って再会を喜んでいた。

ヨルさんの大きな背中でその人はすっぽり腕の中。

こちらからはどんな姿なのか見えなかった。

韓国語で話しているのが聞こえてくる。


「久しぶりに会えて本当に嬉しい。」

「元気だったかい?」

「仕事が順調そうで安心したよ。」

「君の体調がとても心配だったよ。」


多分そういった内容の会話だったと思う。


早くて聞き取れなかったところもあるけれど、大体そんな感じ。


ヨルさんは他の人たちとも再会の喜びを伝え合ってから

私を紹介してくれた。


「うちの従業員の咲園苺花です。

僕がとても信用している者です。

今日は僕と一緒に担当させていただきますね。

今彼女、韓国語を勉強中なんですよ。」

私はご挨拶の言葉を述べてお辞儀をする。

顔を上げるとヨルさんの弟みたいな人と目が合った。

あっ、、、。ヨルさんと同じ。

グレーの瞳の瞳をしている。


と思った瞬間


まるで静電気が目の前で弾けたような感覚に襲われる。

パチン!

反射的に目をつぶってよろけると、すぐ背中にヨルさんの大きな手が添えられて、倒れずに済んだ。

「あ、ティン!」

ヨルさんが口の中で小さく叫ぶ。

思わずヨルさんの顔を見上げると
ヨルさんは苺花じゃなくて弟みたいな人を見つめていた。


苺花もそちらを見ると
弟みたいな人も、隣に立っていた屈強そうな男性に背中を支えられていたのだった。


「苺花ちゃん。

僕の弟みたいな大親友だよ。

彼の名前はティンって言うんだけど、顔に見覚えないかな??」


耳元でそう囁かれて、慌てて自分の記憶を辿る。


、、、見たことあるかもしれない。


グレーの大きな瞳。

美しく整った小さな顔。

まるで美少女の様な神々しさを感じる。

少しウェーブのかかったマッシュルームカットのシルバーヘア。


身長はヨルさんよりすこし低い。

姿勢が正しくて細くても鍛え上げられた身体なのだと分かる。

服装は洗練されていて上質な物だ。


そうだ。


韓国アーティスト集団のメンバーの一人。

数年前に日本デビューを果たし、これから世界進出をするらしい。

今一番勢いのあるアーティストだった。


、、、これは詩の受け売りの知識だけど。


ティンは最年少メンバーだったはず。

そしてメインボーカリスト。

美しい容姿とハイトーンボイスが魅力だが、儚げであまり表情がないので
氷の王子とも呼ばれているんだっけ。


そういえば昨日『コンサートのため来日した』とテレビの情報番組で放送されていたっけ。


芸能人に直接会うのは初めてで言葉が出なかったが、元々あまり興味がないのではしゃぐ様なことはなかった。


「さ、奥のVIPルームにどうぞ。

皆さんお腹空いてますよね。」

ヨルさんが親しげに話しニッコリと微笑んでご案内をする。

苺花も気を取り直して一緒に連れ立ってご案内する。


全員で5名様。

全員男性。

ティンだけとても若い。


少し韓国語でお話ししたら発音を褒められて、嬉しくなる。

可愛い笑顔でお礼を言う。


料理のオーダーを取る。

自分でもそつなく接客できている気がする。


笑顔でお客様の間を行き来する苺花の様子をティンがずっと目で追っていたことにはちっとも気がついていなかった。


厨房に行き、出来立ての料理をワゴンに乗せてVIPルームまで進む。


「失礼いたします。

お料理をお持ちいたしました。」

と声をかけてから配膳を行う。


皆さんとても賑やかで楽しそうに過ごされている。

ドリンクのオーダーも追加される。


「ドリンクお待ち致しますので、少々お待ちください。」


ワゴンを押して厨房まで戻るところで



「ねぇ!」


と突然声をかけられる。


そして、苺花の肩にぽんっと手が置かれる。

咄嗟のことで苺花が驚いて振り向くと

すぐ横に美しい顔が見えてさらに驚いてしまう。


ティンはそんな苺花の様子を面白そうな顔で見ながら苺花の首筋に顔を近づけてきた。


え!え!えええ!


苺花が声も出せずにその場で固まっていると、ティンはどうやら苺花の匂いを嗅いでいるようだった。


「わあ、やっぱりすごくいい匂いがするんだね。

脅かしちゃってごめんね。

ちょっと確かめたかったんだよね。

君の匂い。

だけど、ヨル兄さんの匂いもする。

なんでなんだろう。

どういう関係なのか気になっちゃった。

ねえ、どういう関係?」


とても綺麗な声で流暢な日本語が語られる。


上から見下ろされるグレーの瞳。

ヨルさんと同じだと思っていたけど、全然違う光が宿っている。

ヨルさんが慈しみ深い瞳なら、この人のは相手の心の中を探ろうとする恐ろしさをはらんだ瞳だと思った。


え?

なんのこと?

私の匂い?

ヨルさんの匂いがついてる?

ヨルさんと私の関係??


ティンの言葉が頭の中をグルグルと駆け巡る。


ワゴンを持つ手にジワーっと汗をかく感覚だけが感じられる。


何も答えられずに目を見開いていると、ティンにワゴンを持つ手を外されて壁際まで追い詰められる。


ドン。

背中に壁を感じる。

そのままティンに両手首を押さえつけられ、首筋にピタリと鼻が押しつけられる。


何が自分の身に起こっているのか、苺花には理解ができず、ティンにされるがまま匂いを嗅がれていた。


は、恥ずかしい。

汗臭いかも。


ティンの吐息が首にかかる。

焦りと混乱でたらりと汗が流れた。


それをティンが柔らかくて温かい舌でペロリと舐めとる。


鳥肌が立つ。

思わず

「んぅ、やぁ、、、」

自分のものではないような甘い声が漏れる。


頭の中が焼け付くように熱く、立っていられない。

膝がかくんと折れて体勢が保てず崩れ落ちる。

あ、、、倒れちゃう、、、。


「ちょっと!ティン!」


ヨルさんの声が聞こえて、すぐに横から腕を差し込まれて抱え上げられる。

ティンから距離を取るようにヨルさんが苺花を抱えたまま後ろに下がった。


「あ、、、、。ヨルさん、、、。」

背の高いヨルさんに抱えられて、つま先が宙に浮いている。

苺花は息も絶え絶えで身体に力が入らなかった。

頬も上気している。


「苺花、大丈夫ですか?」

優しく響く心地よい声。


大丈夫ですって返事がしたいのに言葉が出ない。


顔も上げられない。


ヨルさんが苺花を何度も呼ぶ声だけが聞こえる。


もう目も開けていられない。


ヨルさんが私を抱きしめている。

ヨルさんの安心する香り。


その香りに包まれて苺花は意識を手放した。