年末のイタリアンおせち料理企画が詳細がどんどんと決まっていき、事前のVTRの収録も終わって本番まであと数日というところだった。当日の生放送へ向けてよりよい番組になるように、台本を修正していく。

「中原ディレクター、夕食どうしますか?チーフが牛丼ならおごるって言ってますけど」

社内のスタッフに声をかけられて、綾乃は「遠慮しとく」と返事をした。

「どうしたんですか。まさか夕食抜きで作業する気ですか?」

近くにいた智香に心配そうに話しかけられて、綾乃は笑った。

「テイクアウトしてこようと思ってる料理があって」
「えー、何食べるんですか?おいしいんですか?」

智香に言われてパソコンでお店のHPとメニューを見せる。サラダ丼のテイクアウト専門店とのことで、雑穀米の上に生野菜がたっぷり乗っている。それだけでなく、肉や魚、卵などのおかずがトッピングされており、栄養バランスのよさをウリにしたお店だ。

「ダイエットですか?綾乃さん、痩せる必要ないのに」
「いや、絞るところあるんだけどさ。それだけじゃなくて。ビタミンとか必要な栄養をしっかり取れる食事にしなきゃなって」

言いながら綾乃は淹れてもらったコーヒーを口に含んだ。
智香はその言葉を聞いて何かをひらめいたように、どこかいやらしく笑う。

「なるほど、恋ですね」

ブッと勢いよく綾乃はコーヒーを吹く。まるで漫画かアニメのように、勢いよく茶色い水しぶきが飛んだ。

「どうしてそうなるの!次の企画にも参考になりそうだし、気になったものはどんどんチェックしていかないと」
「ふふふ、じゃあそういうことにしておきますよ。私も一緒に行っていいですか?このヤキトリサラダ丼おいしそうなんで」

メニューの映っているパソコンの画面を指さしながら智香が言い、綾乃はコーヒーで汚れた口元とデスクををふきながらOKと笑った。

職場を出て綾乃は智香と目的のお店に向かう途中に、以前の先輩ディレクターの男性に会った。

「これから夕飯?忙しそうだな。」
「はい、でもおかげさまで充実していますよ」

彼には綾乃はAD時代、かなりお世話になったというか、鍛えられたのだ。

今何をやっているのか、次の収録は何をやるのかなどと話をしていくと、石崎シェフの話になった。情報通のディレクターは哲也が‘たけ久’の跡取りであることを知っていた。彼がメディアに注目されるようになったきっかけも、もとはそういった背景があったそうだった。

「あとあれ、声楽家の三谷佐和子と付き合ってるんだっけ」

その言葉を綾乃は聞き間違いか何かではないか、と思った。三谷佐和子というのは日本とイタリアで活動する有名なソプラノ歌手だった。オペラなどの出演のほか、様々な活動をしている。

「それってどこ情報ですか」

疑わしいまなざしで智香が言うと、ディレクターは確かと言って話し始めた。

「彼女がイタリア留学してるときに出会ったんじゃなかったっけ?石崎シェフの店の名前を決めたのも三谷佐和子らしいとか。インタビュー記事でそれっぽいことが書いてあったって聞いたけどな。三谷佐和子も‘たけ久’の佃煮の瓶詰がイタリア生活で欠かせないとかって答えててさ。そういうので知ってる人は暗黙の了解っていうか。でも噂レベルの話だけどさ」

じゃあ、無理せずに、体調に気をつけるようにと言ってディレクターは反対方向にある駅に向かって歩いて行った。

「本当ですかねえ。まあでも三谷佐和子と石崎シェフだったらすごいカップルですけど。絵になるし」

智香のミーハーなテンションと対照的に、綾乃はぽつり、そうねと呟いた。噂レベルとディレクターは言ったけれど、おそらく本当だと綾乃にはわかった。コン・ブリオという店名が音楽用語であること。友人に提案してもらったのだと哲也は教えてくれたけれど、それはきっと、イタリアで出会った三谷佐和子だったのだろう。
活き活きと、伸びやかな声で歌う彼女を思い浮かべると、彼が健康や肌のことを口に出すこともなんとなく納得がいく。日々の食事が美しい女性を作ることを、目の前で彼は見てきたのだ。

綾乃は買ってきたサラダローストビーフ丼の黄色いミニトマトを口に入れる。赤とオレンジ色のミニトマトもあり、丼料理といえど華やかな料理だった。

しかし、カラフルな野菜たっぷりのごはんを食べて、肌の調子がちょっと良くなったところで何になるのだろう。

ただちょっと仕事の相性がいいなと思っただけ。情熱の波長、テンポ、そういうのが合うのかなと。招待してもらったディナーで冗談を言いながらワインを飲むくらいに、彼との距離が近づいていたのかなと。

その瞬間に浮かび上がる一人の女性の姿。美しい容姿に特別な才能。人々を魅了する女性。
自分の作業スタイルともいえるスニーカーにジーンズ、最低限の化粧にまとめ髪。外に取材に行くときなどはもうちょっとマトモな恰好になるし、整えようとすればいくらかよくなろうものだが、細かい点をチェックすればするほど落ち込みそうになる。

「仕事よ、仕事」

綾乃はデスクで台本を修正しながら、一人で夕食を口に押し込んだ。