打合せ兼ディナーに招待された夜。
企画案の資料詳細をまとめて綾乃は午後七時過ぎにオフィスを出る。いつもよりずっと早い時間の退勤に智香はじめ他のスタッフたちに珍しいですねと声をかけられる。
いつもまとめていた髪の毛をおろして、スカートなんて履いている綾乃の姿を不思議そうに見る周囲に、用事があるのでと言って足早に去るその姿は、周囲の人間にとっては何かあるのかと思わずにいられないようだった。

確かに、いつもの仕事とは違った。ディナーコース付きの仕事なんてそうそうない。打合せとはいえこんなに明るい気持ちで向かうのも初めてだった。

コン・ブリオのドアを開けるとマネージャーの男性がすぐに綾乃に気づき、お待ちしていましたよと、まるで予約してあったかのようにフロアの一番奥の静かな席を案内してくれた。

席には二人分のテーブルセッティングがされていた。てっきりカウンター席かと思っていた綾乃は少し驚いた顔をする。

「シェフはもう少ししたら参ります。今しばらく食事をお楽しみになってお待ちください」

マネージャーの彼の言葉にありがとうと言って綾乃は差し出されたワインとアンティパストを口に運ぶ。スモークサーモンと蕪のカルパッチョはこれからの季節にもよさそうで、紅白はおせち料理にも使えそうな小洒落た一皿。もしかしてこれも打合せのために用意されたものだろうかと思いながら、そのおいしい料理に単純にこの後の食事にも期待を膨らませる。

細長いグラスに注がれたスプマンテに、きれいなカトラリー、雰囲気のよいレストラン。やっぱりきちんと整った格好をしてきてよかったと綾乃は思う。本当に仕事ばかりで二十代も走り続けて、やっと自分の思った通りに動けるようになってきた気さえしていた。三十代、まだまだ楽しみな気持ちが湧いてくる。仕事はもちろん、他のことも。

ふと昨日の肌の手入れをしていた自分を思い出して開いている左手で自分の頬に触れると、瑞々しい感触が指先に伝わって嬉しくなるが、何のためにそうしていたのかを考えると急に恥ずかしくなってあわててグラスの液体を飲み干す。

「お代わりが必要かな」

その声とともに現れたのはシェフコートを着たままの哲也だった。同じように細いグラスを右手に、それから左手にボトルを持っていた。

「厨房はいいの?」
「ひと段落した。あとは他のスタッフにまかせて大丈夫」

言いながら、彼は鳴れた手つきで自分のグラスと、それから綾乃のグラスにスプマンテを注いだ。
話題のシェフの登場とあり、周囲の視線もいくらか注がれるが、彼はそんなこと全く気にしていないというように、乾杯とグラスを傾けた。
やがてホールスタッフが次の料理を運んできて、同時に料理に合う白ワインを用意してくれた。
プリモ・ピアットには立派な伊勢海老を使ったパスタを出された。

「企画の件、とても興味深かった。俺でよければぜひお請けしたいと思って、こちらから提案できそうなものもいくつか考えてみている。」

エビを切り分けながら哲也が言った。

「嬉しいわ。あなたあってこその企画なの。資料をまとめてきたんだけど、こういう感じで何か」

ナイフとフォークを置いてバッグから書類を取り出そうとした綾乃の手をすぐさま哲也が握りしめて止めた。

「食事が終わってから拝見するよ。」

制止されただけなのに自分に触れる彼のその大きな手、水仕事でいくらか荒れた指先、すべてに綾乃の胸が騒がしくなる。

「そうね、食事中に失礼だったわ」
「おいしいうちに食べて欲しいんだ。俺たちはサーブのタイミング、食べてもらう瞬間を考えて調理している。それに食材だって一番いい状態で食べてもらいと思っているはずだから」

その言葉に彼が食事というもの、食材そのものも、料理する人、食べる人のことも深い愛情をもっているのが感じられた。

「ありがとう。こんな素敵なディナーに招待してくれて」

綾乃は立派なエビを丁寧にフォークで刺して口に運ぶ。

「いや、一緒に仕事をする人間にうちの味を知っておいてもらいたいと思うのは当然だ」

同じように料理を口に運ぶ哲也の姿を見ながら綾乃はつい笑う。

「すべてにこだわりが詰まっているわね」
「頑固ものだって思っているだろう。言っておくけどお互い様だからな」
「あら、いいことじゃない?仕事にプライドがあるって。」

綾乃の言葉に哲也は笑った。

「まあ、最初はどうなるかと思ったけれど、きみの考え方や仕事に向かう姿勢に心が動かされている」

言葉と同じまっすぐな視線。心が動かされるという言葉に綾乃の胸はまたしても騒がしくなる。イタリア仕込みなのだろうか。日本人の男性はこういうストレートな物言いができない気がするのだ。人間性に対する評価とはいえ、つい顔を赤らめてしまった。

「どうしてこの仕事を?」

哲也が綾乃に聞いた。テレビ業界の仕事はハードなことが多い。体力的にキツくて辞めていく人間ももちろんいる。綾乃自身、就職するとき両親に心配された過去があるほどだったし、実際にきついと感じた時期もあった。
それでもこの道を選んで、進み続けている理由。

「たくさんの人に届けられるから、かな。」

その言葉に哲也は続きを聞かせて、と言うように相槌をうつ。

「今ではインターネットで動画も音楽もなんでも楽しめるから、テレビは斜陽産業とか言われているけど、私たちが子供の頃ってやっぱりテレビの影響力ってすごかったじゃない?ニュースでも、生活の知恵でも、コントでも、音楽でも。たくさんの人に知れ渡った。私は、図々しいとは思うけれど、世の中にとってプラスになる何かを少しでも届けていきたいって思った」

和やかな雰囲気でつい綾乃は素直に語ってしまった。少し恥ずかしいなと思ってグラスのワインで口を湿らせてから、すぐに言った。

「そっちこそ。どうしてこの仕事を?」

恵まれたルックスだけでなく、若くして都内に一軒家レストランを所有できるほどのオーナーシェフになれるところなど、その実力をもってすれば他のどんな仕事に就いたとしても評価されたに違いない。
彼もまたワインを口に含んでから、穏やかな顔つきで言った。

「‘たけ久’って知ってる?」
「ええ、あの有名な和食の?」

たけ久というのは創業二百年近くになる老舗の高級料亭だ。東京の日本橋に本店を持ちながら、一流ホテルのテナントのほか、デパ地下へのお総菜の出店や通販サイトのお取り寄せグルメとしも人気が高い。

昔、年末年始にかけて泊まり込みで仕事になったときに上司がたけ久のお弁当を買ってきてくれて食べたことがあるのはいい思い出だ。

「あれが実家なんだ」
「え?」

実家という言葉に綾乃は思わず手に持った伊勢海老の最後の一切れをフォークに刺したまま動きが止まる。

「実家というのは」
「今の社長は父親、会長は祖父。」

江戸時代から続く料亭が実家なんて人を初めて見たと言う顔で綾乃が驚いていると彼は驚かせたいわけじゃないと言って、彼の手元にある料理を食べ終える。近くにいたスタッフが空いたお皿を下げるとともに、スタッフはメインの肉料理とそれに合わせてワインを持ってきてくれた。

‘たけ久’の御曹司と食事をしていると思うと、綾乃はとたんに緊張しそうだった。大きめのグラスに注がれた美しいガーネット色の赤ワインにそっと口をつけて、綾乃は彼の話の続きを待つ。

「それで、俺は後継ぎと言われて育てられた。料理長というより経営者としてね。もちろんいつも身近にあった料理のことは大事に思っていたし、当たり前のように会社を継ぐなんて嫌だと思ったんだ」
「それでイタリア料理を?」

綾乃の言葉に哲也は顔にしわを寄せて笑った。

「そういうわけじゃない。大学でも経営学を学んだ。ただ、調理師免許だけは大学時代にダブルスクールで取っておいて、それからイタリアの日本大使館に勤めたのはどうしてもそのとき日本を出たくて、たまたま縁があって、でも結局そこでイタリア料理をかなり学んだ。」

じゃあどうしてイタリアンのシェフになったの、という綾乃の知りたいことを分かりきっているように彼は言った。

「現地で教えてもらったイタリア料理のエネルギッシュさ、感動したね。食べる喜び、生き返るような感覚があった。」

薄暗いキャンドルの明かりの下なのに、彼はまるでイタリアの日差しの下にいるかのようにその表情を輝かせた。それはコン・ブリオ、元気に、生き生きと、という言葉のように。

「それで、お店の名前も決めたの?」
「いやそれは音楽に詳しい友人が提案してくれて、ぴったりだと思って決めたんだ」

すごくお店と料理と雰囲気がマッチしていると綾乃が言うと彼はありがとうと微笑んだ。

「素敵なお話をありがとう。」
「いや、こちらこそ。話ができてよかった。」

綾乃は穏やかに笑って言うと、彼もまた同じように笑顔を見せた。お互いを知っていくことが楽しいなんて、大人になってからは滅多にないことだった。

「あなたが御曹司とわかって驚いたけど。」
「いや、そんなんじゃないし、それはどうでもいいんだ。ただ、そういう背景があるから俺は和食もそれなりに詳しいって話。正月料理のおせちにイタリアンのテイストを取り入れる企画なんて本当に楽しみだ。」

頼もしい顔つきでそう話すシェフの姿がとても頼もしかった。

「本当にこの企画、あなたでないとだめだわ。」

綾乃の言葉に哲也は余裕たっぷりに微笑んで言った。

「あなたでないとだめなんて、情熱的な告白をありがとう」

彼の冗談にあわてて綾乃はそういう意味じゃないと勢いよく言い、彼は声を上げて笑った。活気あるコン・ブリオの店内でも二人の笑い声が一番明るく響いていた。

「また打合せをしよう。あとは、収録後の打ち上げもしたいね」
「ええ、ぜひ」

デザートはティラミスだった。ティラミスには「私を引っ張り上げて」という訳から、「元気にする菓子」という意味があるのだと言う。

食べると元気になる料理。
本当に、この場所を訪れた後はいつだって気力があふれる気がする。

それでも綾乃を元気にするものが、この店の料理だけでないことは、もうわかっていた。