「先日の収録したDVDと視聴者アンケートとメッセージをまとめたものを持参したいのですが」

綾乃は普段ならここまで丁寧なことをしないのにと思いながら、メールを作っていた。だいたいは、番組に出演してもらってそれで終わりのことが多い。

しかし、視聴者からのリアクションはかなり好評で、ファンメールのようなシェフへのメッセージも多々あった。それを届けるのは担当したディレクターの仕事のはず、と言い訳をするように綾乃は送信のボタンをクリックした。

返事は、その日のうちに来た。

「ご都合のいいときにいつでも。お待ちしております」

メッセージを確認すると綾乃はすぐにスケジュールを確認した。デスクで慌ただしくする綾乃にADの智香が首をかしげながらコーヒーを置いていく。

ロケ、会議、ロケ、編集、本番。スケジュール帳の黒さに綾乃は若干ふらつきそうになるが、一つ空欄を見つける。
五日後の収録の午後。今週唯一のオフだった。
いつもなら徹夜明けの収録後で帰宅して寝るだけのところだがが、そのまま哲也の店、コン・ブリオにランチを食べに行こうと決めた。

今まで無理をして、わざわざランチを食べに行く…それもお洒落なイタリアンレストランになんてことはなかったが、これもまたいい機会だとポジティブに捉えて、綾乃は集中して台本作りに取り掛かった。明るい気持ちでおいしいランチを食べられるように、と。それはいいことに思えた。自分の楽しみに向かって努力する。ここのところそういうことがなかったから。ひたすらいい仕事ができるように突っ走ってきただけだったから。

徹夜明けの収録後、午後二時少し前にコン・ブリオに向かうと店の前にまだ三組ほど待っている客がいたので綾乃は驚いた。平日のこの時間で待つ客がいるのか、と思うとさすがとしか言いようがない。

一応、職場でシャワーは浴びて、化粧もそこそこにしてきた。有名店にお邪魔できる程度の身だしなみは心がけてきたつもりだった。

まだ前にお客がいる状況で、前に並んでいた客を店内に案内するタイミングでマネージャーの男性が綾乃に気づいた。収録でも何度か顔を合わせていたのだ。
普段と違う印象の女ディレクターの姿に何かを察したように、気を利かせた彼は綾乃をカウンターに案内し、その存在にすぐに気づいた哲也は厨房越しに笑った。

「ヴェンヴェヌータ(ようこそ)!」
「ランチをいただきにきたの。あとで渡したいものもあるけれど」

綾乃の言葉に哲也は汗をぬぐいながら近づいて笑う。相変わらず厨房の中は暑そうだった。オーナーシェフだからといって口だけの監督にならずに、自身も人一倍手を動かす彼は輝いている。

「今日の日替わりはスズキのロースト、夏野菜添え。よければグラスワインをサービスするけど」
「ふふ、嬉しい。じゃあそれで」

綾乃は笑顔をみせた。久しぶりのパンプス、徹夜明けのぼんやりした頭。それらの疲れも、どうでもいいと思う。店内にはおいしいと繰り返される言葉、楽しい笑い声でほどよく賑わっている。
みな幸せに食事をしていた。彼の料理が人々を幸せにするのだ。そして自分もこれからおいしい料理をいただくのだと思うと本当に、ちょっとしたことはどうでもよかった。

店にいるスタッフ一人一人も親切で、有名店だからと気取っていなくて、フロアは常に明るかった。店内にところどころ置かれている花はどれも小さいながらも愛らしい雰囲気を漂わせていたし、絵画も家具もセンスがいいものばかりだ。気持ちよく食事を楽しんで欲しい、という気持ちが伝わってくる。この店の評価が高いのも、メディアが彼に注目するのも、なんだか納得がいく気がしながら、綾乃は店内の様子を眺めていた。

「お味はいかがでしたか」

食後のドルチェとコーヒーを味わっているところで、まだシェフコートを着たままの哲也がカウンターの隣席に座った。
ランチタイムの営業終了まであと十分ほどというタイミング。残り僅かの客が突如現れた石崎シェフの存在を気にしていたが、彼は何も気にすることはないというような様子だった。

「この間のまかないランチもおいしかったけど、やっぱりシェフおすすめは違うわ。絶品ね。食べに来てよかった。元気でそう」

その綾乃の言葉に彼は満足そうに微笑んだ。

「それはよかった。うちの店のコンセプトだから」
「元気になることが?」
「そう。コン・ブリオって店名はイタリア語なんだけど、音楽用語で活き活きととか、活気をもって、元気に、とかそういう意味なんだ」

活き活きと。活気をもって。元気に。
そう言葉を発する彼自身が、その証明のようだった。

「ここの料理を食べると活力が湧くのね」

旬のおいしい魚にたっぷりの野菜。ほどよいオリーブオイルのコク。心を満たすデザートまで、一つ一つが丁寧に仕上げられていて、元気をくれる。
綾乃の言葉にそう、と彼は笑顔で頷いた。

「番組、好評だったって?」

隣に座って一口水を飲むと哲也は言った。

「ええ、おかげさまで。視聴率もよかったっていうし、あと、これ。視聴者からの反響もすごいわ」

番組に届いたメール等をまとめたものを印刷して持ってきていた。メールで送れば済む話を、わざわざ持参したのは、その顔を見たかったからか。おいしい料理を食べたかったのももちろん訪問した理由の一つだったが。

「よかったら受け取って。たくさんの視聴者の方があなたの料理に励まされているの。」

お世辞ではなく綾乃の言う通りだった。企画意図通りの‘苦手だった魚料理を早速作った’だとか、‘簡単な魚レシピのおかげでレパートリーが増えた’という感想はもちろん、‘食べ物を大切にしたいと思いました’、‘食の大切さを実感しました’といった、もっと大きなものを汲み取ってくれた人も多くいた。それはやはり、石崎哲也というシェフの熱い想いがあったからこそだ。

「ありがたいね。でもきみの企画あってこそだ。」

誉め言葉に綾乃は一瞬恥ずかしくて俯く。それに気づいたか気づかずか、哲也は嬉しそうにその用紙の束を眺めていた。

「また、出演をお願いしても?」

食後のコーヒーの最後の一口を飲み終えたところで綾乃が言うと、哲也はもちろんと言った。スケジュールは早めに教えて欲しいけれどとは言うものの、その返事前向きな返事が嬉しくて綾乃は興奮気味に言う。

「日本の食文化のイタリアンアレンジとか、食材を無駄なく使う方法とかの企画もやりたくて」
「相談にのるよ」

堂々としていて、自信にあふれた彼の姿。頼もしくて、このまま身を寄せたくなるほど。この人に任せれば絶対大丈夫、という安心感があった。

「助かるわ。ありがとう」

仕事でつながっている相手とはいえ、今までと違う感情が綾乃の胸に込みあげる。

「今度はうちのディナーに招待するよ。とりあえず今日は早く休んだほうがいい」

その言葉に少し眠気が襲ってきていた綾乃は言う。

「わかるの?」
「肌の調子がよくない。栄養だけ摂ってもダメだ。きちんと休養も取らないと」

深夜に仮眠一時間をとったもののほとんど寝ないで作業をしたことが彼にばれてしまうのも、綾乃にはさすがに思えてしまった。

「俺は健康的な美人が好きなんだ」

からかうように哲也が言うと綾乃はなにそれ、と言いながら不健康な自分が恥ずかしくなって立ち上がる。それと同時に健康的な美人になったら何かを期待してしまいそうな一言でもあった。

「連絡、待ってるよ」

伝票を手にとって背を向ける綾乃に哲也は笑って手を振った。連絡を待っていると言う言葉が仕事の話であることは間違いないはずなのに、あまりにも気さくに接して笑ってくれるので、なんだかもうずっと前からの親しい仲みたいな気持ちになる。
その笑顔と仕草がこの店のオーナーとしてなのか、一人の男性としてなのかはわからなかったが、店の名前通り─コン・ブリオ、生き生きと、元気に…それは空腹を満たすだけでなく活力を与えてくれている気がした。