後日、ランチ営業終了後のディナータイムまでの間なら取材対応可能とのことで、指定の時間に綾乃はコン・ブリオを訪れていた。

ランチ営業が終わった時間帯とはいえ、厨房はまだかなりの熱気があるようだった。マネージャーの男性に案内された綾乃の前に現れた哲也はまるで運動後のように汗をかいていた。ちょっと待ってと言って汗をぬぐうその姿は、不覚にも色っぽいと綾乃は思ってしまう。


やがてひと段落した哲也に綾乃が台本と企画概要の修正案を渡す。

「魚料理を食卓に取り入れたくなるようなレシピとコメントをいただきたいんです」

修正企画案と台本には、切り身魚を使うことや市販の刺身を活用すること、そして身近にあるスーパーで手に入る調味料を使うことなどが記載してあり、それらに目を通しながら、哲也はわずかに険しい顔をする。
問題があるのだろうかと綾乃が聞くと、哲也は紙から視線を綾乃に向けて言った。

「簡単な旬のイタリアンの料理を紹介する企画だと聞いて請けた仕事だったけれど、これは誰の案?」

想定外の仕事だと断れるのだろうかと綾乃は内心びくつきながら「私です」と言った。

「もちろん、基本的には簡単で、石崎シェフだからこそのおいしいイタリアンを教えて欲しい企画です。ただ、シェフにとっての簡単が必ずしも一般の方にとって簡単ではないので、そこは手に入る材料で工夫したいです。それと最近の日本人は魚を食べる機会が減っていて、魚を料理することに苦手意識を感じている主婦の方も多い。でも、旬の魚は季節を教えてくれるし、魚だからこその栄養もあるし、視聴者の方にこれだったら作ってみようかな、食べたいなって思ってもらいたくて。」

一瞬も目をそらさずに哲也は綾乃の話を聞いていた。
彼は料理へのこだわりは人一倍の様子だったので、魚がおいしく食べられるようなレシピと話をしてもらおうと思ったのだ。彼だからこそのおいしい食べ方を教えて欲しい。
でも実際に家庭で作れることが大前提。それだけは綾乃も譲れなかった。そんな綾乃の意思を感じたのか、哲也は本当に一瞬だけ笑ったかのように見えた。

「わかった。その前に昼食にしよう。」

昼食。思いがけないその言葉に綾乃は目を丸くする。

「まかない飯だけどな。うまいよ、うちのまかない。それに栄養もある。収録が終わるまでに、きみに倒れられたら困る」

そのとき、朝ごはん代わりのビタミン飲料とシリアルバーだけで午後三時近くまで過ごしていたことを見抜かれたようで綾乃は恥ずかしくなる。

「それに、俺にはコメントを考える時間が少し必要だ」

その言葉に思わず綾乃は笑ってしまう。

「時間稼ぎが目的?」
「どっちもだな」

どっちも。綾乃に倒れられたら困ることと、コメントを考える時間が必要なこと。確かに番組を作るためにはディレクターがいなければ困るし、いいコメントも必要なのは間違いない。それでも、なんだか半分くらいは自分の体を心配してもらえたような気がして綾乃は戸惑ってしまう。

「実はお腹ペコペコで。」

綾乃が少し照れたように笑って言った。

「だろう?その腹の音がマイクに拾われると困るだろうから」
「そんな音してないわよ!」

そんなやりとりをして二人で笑った。メディア出演も多い華々しいオーナーシェフはどんな気取った男だろうと思っていたけれど、料理にこだわりがあって、プライドがあって、そして意外と親しみやすい人なのかもと綾乃は思った。
この企画がうまくいく予感を感じながら。