都内にある有名なイタリアンレストラン、コン・ブリオはいつも明るい雰囲気で活気がある。店から出てくる客はみなおいしい料理を満喫して笑顔になっている人たちばかりだ、ともっぱら評判だ。

その日は、いつもの穏やかなディナー前の準備時間と違って、厨房内からは騒がしい声が響いていた。

「このサイズの瓶で一本五千円もするような酢を使う人がどれほどいると思っているの?もっと普通の人に寄り添うレシピにして欲しいわ!」
「これはただの酢じゃなくて、その値段分の価値があるものなんだ。一度使えば絶対にこれの代わりはないと思うはずだ」

新人ホールスタッフの内田圭太はカウンターを磨きながら、少しだけ首を伸ばして厨房の中の様子を探ろうとする。

ランチ後、ディナータイム前にテレビ局の取材が入るという話は聞いていたが、どうやらその収録のことでもめているようだ。

「バルサミコ酢って言われたとき、まあ最近は一般的かなと思ってOKしたけど、まさかこんな高級品を使うとはね」

呆れたように顔を歪ませて笑う女性は、三十代前半か半ばか、そのくらい。シンプルな白いシャツにデニム、スニーカーを履いて、髪の毛は一つにまとめている。すごくこざっぱりとしていて、でもかっこいいな、と若い青年の内田は思った。

コン・ブリオのオーナーシェフ、石崎哲也は料理の腕はもちろん、その経営手腕なども含めてとても仕事ができる人として知られている。メディアなどにも数多く出演する有名人でありながら気さくで、しかし仕事に関しては自分にも他人にも厳しいところがあるので、その石崎シェフと対等に意見を言う女性ディレクターの存在は印象的だった。

「でもなんか、見たことがあるような」
「するどいね、内田君。サービス業に必要な適正だよ」

圭太が振り向くと通りかかったマネージャーが笑いながら言った。

「笹井さん。あの女性、前も来たことありますか?」
「うん、まあ何度か取材とかでね。」

そのときの笹井マネージャーの意味ありげな含み笑いが、圭太には何のことかわからないまま、とりあえずは目の前の自分の仕事をしなくてはと、再びテーブルの上をきれいに磨き始めた。

それから一週間ほどしたディナータイム。午後九時過ぎ。コース料理を堪能するなら、この時間に入店するのがギリギリといったところだろうか。
ドアを開けて入ってきた一人の女性は、笹井マネージャーに案内されて一番奥のテーブル席に着座する。席には二人分のテーブルセッティングが用意されており、待ち合わせかと思った圭太は入口に気を配りながら他のテーブルに料理を運ぶ。

「内田くん、これを1番テーブルに」

1番テーブル。先ほど来店したばかりの女性のところだった。笹井マネージャーに言われてフルートグラスとスプマンテをもっていくと、女性は視線を圭太に向けてありがとうと微笑んだ。
そのとき圭太の中で一つの面影が一致した。

「ディレクターさん?」

驚いて思わず声を出してしまった。驚かずにいられなかったのだ。あのときのテキパキと動いて、ADやらカメラなどに指示を出し、シェフとも対等に言いあっていた女性が、髪の毛をほどいて、深紅色の口紅を塗り、シンプルながらも女性らしいワンピースを着て、ハイヒールのパンプスを履いて来店するとは、誰が想像するだろう。

「あ、どうも。中原です。お世話になっております」

いかにもきれいなお姉さんという綾乃に微笑まれた圭太は動揺して、こちらこそお世話になっております、などとよくわからない挨拶をする。きちんと化粧をされた笑顔、少しスパイシーながら甘い香りがわずかに漂う。思いがけない女性の姿に緊張しながら圭太がグラスにスプマンテを注ごうとした時だった。

「綾乃、待たせて悪い」

そういってアンティパストのプレートを直々に持ってきたのは石崎シェフだった。

「あと十分くらい一人で食べていて」
「大丈夫よ。楽しみながら待っているから」

そういって笑顔を向けあう二人を見て圭太は思い出す。この女性は以前もシェフとこうやってディナーをしていた人だったのだ、と。それで先日、取材に訪れた綾乃が、前にも見たことがあるような気がしたのだった。
テーブル席からスプマンテのボトルを抱えて戻ってきた圭太に笹井マネージャーが何やら嬉しそうに笑っている。

「驚いた?」
「驚きました。ディレクターさん、別人みたいだし。シェフもあんな笑顔を見せるなんて」

先ほどの哲也が綾乃に向けた笑顔は、一瞬ではあったが仕事のときに見せる爽やかで頼もしい笑顔とは違った。すごく大人の色気があるというか、甘いというか。とにかく驚いた。

それを圭太はうまく言葉で表現できないでいるうちに、やがて仕事をひと段落させた哲也が出てきた。シェフコートを着たままではあったが、片手にワイングラスと、料理に合う白ワインをボトルごと持って、綾乃のいる一番奥のテーブルに向かった。

当然ながら何も知らない周囲の客たちの視線はシェフに集まる。しかし哲也は周りのことなどは少しも気にならないという様子で、二人で乾杯をして食事を始める。

あわてて圭太は厨房から差し出された二人の料理を持って行く。
二人は新人ホールスタッフにありがとう、と丁寧に微笑んで、それからまた会話を始めた。
戻ってきた圭太に笹井マネージャーが、笑顔で言った。

「これは忙しい二人の大事なデートの時間なんだよ」

その言葉に、なるほどと思って圭太はもう一度二人のいるテーブルを見る。確認できたのは横顔だけだったけれど、石崎シェフの笑う顔はやはり仕事中の笑顔と違う。余裕があって、堂々としていて頼もしくて、それでいてとても柔らかい。それは同じ男から見ても、惚れ惚れとするような、すごくかっこいい素敵な大人の男性の笑顔だった。

「笹井さん、僕もあと十年くらいしたらああいう顔ができるでしょうか」

真面目な顔をして言う青年に対して笹井マネージャーはつい笑ってしまった。

「恋だね。本物の恋をしなさい、内田くん。それと仕事も全力でね。」

恋と仕事。
再びみると、石崎シェフと中原ディレクターが何かの話題で盛り上がっているようで、声を上げて笑った後、二人は見つめ合ってしばらくまた微笑み合った。そのいい雰囲気のまま、シェフはその大きな手でゆっくりと、丁寧に彼女の頬を撫でる。たったそれだけなのに、まだ若い青年にはそれが映画のワンシーンのように見えた。唇が重なる瞬間を見るよりも、ずっとドキドキしてしまう。

そしてあんなにかっこいい顔で仕事をしていた中原ディレクターの柔らかく甘く、まるでドルチェで満たされた女の子が見せるような幸せそうな顔。

いつか大事な女性にああいう表情をさせられる男になれるのかな、なりたいな、と圭太は思ってしまう。

そんな憧れの大人の恋人たちのディナー風景を見ながら、笹井マネージャーの「OK?」の言葉に圭太は、しずかに、そして力強く頷いた。