次の料理を用意すると言って哲也は席を立って厨房へ行った。
一人になって、静かな店内で綾乃は心もとない気持ちになる。こんなふうに特別な食事をして、思い出が増えて、これからも彼といい仕事をしていけるのか、と思うと胸は苦しくなりそうだ。仕事相手の人間にこんな気持ちを抱くことは今までなかったのだ。それはありがたいことなのかもしれない。それでも、余計な期待は大きくしたくない。

用意されたセコンド・ピアットには牛肉のタリアータ。それに黒いトリュフのスライスが添えられている。

「本当に、ただの仕事の打ち上げにしては贅沢すぎるわ」

綾乃が歓声を上げると哲也が料理に合わせてワインも、と言って新しいボトルを持ってきた。

ボトルのラベルにはAMOREの文字が描かれていた。アモーレ、愛ではないか。思わず綾乃はそれに視線を奪われる。その意図するところを探りたい綾乃の気持ちもわかっているように哲也は笑って言った。

「ただの取引先の人間にここまですると思う?」

余裕たっぷりの微笑みで、彼は丁寧にワインのコルクを抜く。美しいディープルビー色の液体がグラスに注がれる。綾乃は今、宝石よりも意味のあるワインをいただいている気がした。

「でもお店の名づけ親の女性との噂もあるみたいだし」

綾乃が少し皮肉っぽく言うと哲也は赤ワインの入ったグラスを綾乃に差し出した。

「なんだ、気にしてくれていたんだ。そうだね、彼女がこの店の名付け親だ。今でもいい友人だよ。彼女も食いしん坊だしね。よく新しい料理の試作を味見してもらったりしたよ」
「世間ではそういうのが付き合っているって話になるのよ」

綾乃は言いながら彼の手元で傾けられたグラスに自分のグラスを傾けて、口に含む。彼みたいにルックスのいい男というのは、常に誰かの好意があるから付き合う、付き合わないという境界線に対して無頓着なのだろうか。これだけ周囲の人間の心を奪っておいて困ったものだと思いながらとびっきりのメインディッシュを綾乃は口に運ぶ。その気持ちのよい食べっぷりに彼が笑って言った。

「君にとっては、どういうのが付き合っているっていう話になる?」

そのとき、再びAMOREの文字と小さくもハートの柄が入ったラベルの赤いワインが目に入り、図々しくも自分が特別なのかもしれないと思った。
少し食べながら考えて、最後の一口の牛肉を口に運ぼうとしたところで、綾乃は言った。

「そうね、やっぱり貸し切りで、シェフを独り占めできるスペシャルディナーはマストかしら」
「なんだ、たったそれくらい?君が大丈夫なら毎週貸し切りにするけれど」

それだけ言って哲也が笑って立ち上がって席を離れた。おそらくデザートを用意してくれるのだろう、と綾乃は思った。案の定、五分程して美しく盛り付けられたティラミスを持っていた。単なる茶色と白いグラスデザートでなくて、ベリーなどのフルーツとカラメルとビスケットで飾られた自分のためだけのティラミス、それは私を押し上げる、私を間違いなく元気にする料理。そして今、素敵なレストランに二人きり。この状況を、他にどういう気持ちで受け止めればいいのだろう。

「他の誰にもこんなことしたことないよ」
「なんだか信じられない」

イケメンで、こんな素敵な店のオーナーシェフが自分だけに料理をふるまってくれるなんてこと。今までの仕事漬けの日々では想像もできないスペシャルなこと。
信じられない、言ってしまえば疑わしいまなざしで言う綾乃に彼は笑った。もっとちゃんと自分が特別だと証明して欲しい。綾乃の気持ちを汲み取ったように哲也の顔が近づく。

唇は、重なりそうなところで止まった。綾乃の胸はかつてないほど激しく脈を打っている。哲也は余裕たっぷりに笑って言った。

「ドルチェが先だな。そのあとたっぷり証明するよ。俺がどれほど君に惚れているかってね」

その言葉にディナー後の溺愛を覚悟しながら、綾乃は笑ってティラミスを銀のスプーンですくって、ゆっくりと口に運んだ。