約束の時間に綾乃が店を訪れるとクローズドの札があり、ドアに鍵がかけられていた。しかし、覗いてみると店内はうっすらと明るいようでもあったので、どうしたものかと思っていると、綾乃に気づいた哲也が出て来てドアを開けてくれた。

「失礼したね、入って」
「どういうこと?休業日なの?」

店内に入りながら綾乃が心配そうに聞いた。

「ああ、定休日なんだ。だから今日は貸し切り。君のために特別なディナーを用意したよ」

君のためにという言葉に驚きながらも、特別なディナーと言われて、嬉しくないはずがない。

期待と緊張が入り混じりながら案内されたテーブルにはテーブルセッティングがきちんとされていた。ウェイターがしてくれるように哲也が椅子を引いてくれて綾乃は着座すると、彼はテーブルの上のキャンドルに火を灯した。

アンティパストのプレートとスプマンテを用意してくれる哲也の姿を自分が一人占めしていると思うと、綾乃の中に嬉しいような、気恥ずかしいような気持が込みあげてくる。
前菜は、真鯛のカルパッチョに木の芽のソース。シェフのセンスの良さはもちろん、丁寧に盛り付けされた料理には食材と食べる人間の両方に敬意が感じられる。

「何かおかしい?」

料理を見つめて、つい笑顔になる綾乃に哲也はそう言って、向かいの席に座った。
他に誰もいない。貸し切りのレストランで、自分のためだけに料理を用意してくれるシェフ。それが他の誰でもない石崎哲也なんて。

「ううん、贅沢させてもらってるなあって。」

そんなやり取りをして細いグラスを傾けて乾杯をした。こんなふうに二人きりで向かい合って食事をしていると、スプマンテの気泡が胸の奥でまで軽やかに弾けるような気がする。

「大赤字じゃない?こんなただの取引先の人間一人を接待するのにコン・ブリオ貸し切りにして石崎シェフの時間を使うなんて」

プリモ・ピアット、最初の一皿めの、タケノコ、あさり、たらの芽などを使った春らしいパスタを食べながら綾乃は言う。まだ食事は始まったばかりなのにこんな話題をしていいものかという気もなくはなかったが、これ以上の期待もしたくなかった。
自分が特別扱いされているのは大事な取引先の人間だからと、彼の口ではっきりと言ってもらったほうがよかった。

「食べてくれる人がいてこその料理人だから。君はなんでも喜んで食べてくれるし作り甲斐がある。」
「どうせ食いしん坊ですよ」
「いや、それがいい。ワインも遠慮しないで。今日は思いがけず君と仕事できたことを感謝したいから。」

出演予定だった田口さんも無事でよかったと哲也は笑顔を見せる。事故を起こした大型トラックの運転手はじめ事故に遭った人たち、多少のケガはあれども奇跡的にみな無事だったのも明るいニュースの一つだった。

「助かったのはこちらのほうよ。本当に最初はどうなるかとみんなで大騒ぎだったの。でもあなたが出てくれることになって、絶対に大丈夫、うまくいくって信じてた。たぶん喜んでるファンの人も多いでしょうしね。」

綾乃は料理に合わせてもらった白ワインを口に含んで、哲也の反応を静かに見る。
彼は料理を作るのが仕事だと言うけれど、綾乃から言わせてもらえば、彼はただのシェフじゃない。人前で説明するのだって上手だし、その見栄えのいいルックスは芸能人と並んでも遜色ない。おいしい料理だけでなく、彼の笑顔を求めて来店する女性客が多いことも頷ける。

「テレビの仕事の後ってやっぱり予約が増えるって言ってたし、また明日からも忙しいでしょう。嬉しいけど申し訳ないわ」

綾乃が言って、ちょうど料理が終わる。

「商売繁盛、何よりだよ。食べてもらえることに作る意味がある。」

彼は笑って言い、同じペースで料理を食べ終えて言った。その言葉からも、彼は料理だけでなく自分のファンが多いことなど、まるで気にしていないというように、ただひたむきに、ストイックに仕事と向き合っているようだった。