都内にある有名なイタリアンレストラン、コン・ブリオはいつも明るい雰囲気で活気がある。店から出てくる客はみなおいしい料理を満喫して笑顔になっている人たちばかりだ、ともっぱら評判だ。

ところがこの日は、店から強い口調で言いあう声がするのでホールでディナー営業に向けての準備をしているスタッフたちは心配そうに様子を見守っていた。

「こちらのコーナーでは一般の方が作りやすいことが大切ですので!」

中原綾乃34歳は都内のキー局でディレクターをしている。お茶の間の生活情報番組の人気コーナーを担当して半年が過ぎ、最初の難局に直面していたのは、有名オーナーシェフの石崎哲也36歳が自分のこだわりを断固として譲らないからだ。

無理やり笑顔を作りながら綾乃が三度目の説明をすると哲也は生のにんにくを手で持ちあげるとあからさまに不機嫌な顔をした。

「にんにくは切り方でその香りの強さが変わる。それを手軽だからと言ってチューブのおろしにんにくで作れなんていうのは、シェフとして俺は言うことができない」
「ですから、プロはこうするけれど、ご家庭では…という感じで口頭で説明していただきながら調理していただければと」

この説明も三度目だった。AD,カメラマンたちが心配そうに見守るなか、綾乃は台本を見せながら哲也にもう一度番組のコンセプトや視聴者の特性、世の中のニーズ、そして石崎哲也というシェフが料理を教えてくれることの意義を訴えていた。

石崎哲也という男は、かつてイタリアの日本大使館シェフを務め、一年前に都内にコン・ブリオというイタリアンレストランを開いたオーナーシェフである。経歴だけ見れば似たような人間はいくらかいそうではあるが、この男がメディアに呼ばれる理由の一つがそのルックスである。

180センチ以上あろうかという身長とほどよく筋肉のついた腕。それからどこかワイルドささえ感じる甘すぎない整った顔立ち。コン・ブリオの客層の半分以上が女性だというのは何やら料理のクオリティ以外の理由があるようだった。

「とりあえず、撮れるところから進めましょう」

綾乃の声かけに周囲のスタッフが準備を始める。当日の生放送に加えて、VTRで流す場面もいくらか撮る必要があったので、できるところから進めることにした。
それももちろん一筋縄ではいかないので、いくらか台本の修正は覚悟するしかないと綾乃は寝不足の疲れた顔で、誰にも見られないところで大きなあくびを一つした。

「おつかれさまでーす」

テレビ局に戻ってADの若い女の子、大澤智香にコーヒーを淹れてもらって綾乃はあからさまにくたびれた顔を見せた。

「めっちゃ疲れていますね」
「そりゃ、そうよ。結局台本の書き直しに追加での取材。いい加減、家に帰りたいわ」
「待ってくれてる人いるんですか?」
「聞かないで」

綾乃のぶっきらぼうな返事に智香は笑った。

「夕飯、ご用意しますよ。デリバリーかテイクアウトですけど」
「ありがとう。じゃあ、辛いのがいいな。韓国料理かインド料理か、脳に刺激がいきそうなやつ」
「了解です」

部屋を出る智香を見送ると綾乃はまたパソコンを相手に険しい顔をしていた。
台本を修正しているとじわりといら立ちが込みあげてくる。そもそも石崎シェフにお願いするという企画は綾乃の提案ではなく、チーフプロデューサーが視聴率を取るためにと持ってきた話だった。もちろん、上層部が交渉したからこそ、今をときめく人気シェフが出演するに至ったわけだが、それを丸投げされて苦労させられている身としては不機嫌にもなるのが当然だ。いつだって苦労するのは現場なのだ。

三十分ほどしてインドカレーを持ってきてくれた智香にお礼を言って代金を支払い、片手でナンを食べながら今日の収録分を確認する。

「おいしそう」

その言葉が向けられたのはパソコンの画面。今日撮ってきたVTRで、シェフが作る本格的なアクアパッツァにカルパッチョが映っている。

大きなテーマは旬の魚を楽しむというものだった。それをなるべく簡単に、切り身や刺身を活用することで魚料理を気軽に楽しんで欲しいという意図で、シェフのレシピを紹介してもらうことになっている。

ところがこのこだわりの強いシェフは、調理方法も手抜きせず、手に入れるのが難しそうなイタリア食材を使おうとするなど、綾乃と衝突を繰り返していた。
もちろんこだわりの料理はおいしいだろうが、こだわりが強すぎると今回の企画の意図とはずれてしまうのだ。彼にとって簡単に作れる料理でも、一般の人も果たして同じか、ということだ。

出来上がった料理を紹介しながら、石崎シェフはフレッシュな白ワインとどちらも相性がいいと説明している。

綾乃にとってはワインを飲みながら、のんびりディナーなんて夢の世界だ。大学卒業後このテレビ業界に入って多忙な日々を繰り返している。順調にADからステップアップしてディレクターになったものの、それを一緒に喜んでくれる相手もいない。忙しさに拍車がかかる日々は寂しさも忘れさせる。

「ご家庭でも作りやすくおいしいので、ぜひお試しして欲しい料理です」

石崎哲也の笑顔。爽やかで、さすがともいえるほど堂々としていて、頼もしい。自分の料理に自信と信頼が感じられた。

「ここは採用決定」

視聴率UP間違いなし、と綾乃は心の中で思いながら、動画の一部を切り取る。それから辛さレベル高め設定にされたであろうカレーを口に押し込んだ。