った。「首実験したいんです。酷かもしれませんが、遺体を見て頂きたくて」
 赤松は首を振った。
「いいえ、大丈夫です。見せて頂きます」
「それではモルグへ行きましょう」

 
 遺体置き場の寒々とした空間にて、赤松は震えていた。安田警部補は優しく彼女をエスコートした。
「遺体の顔は縫合してあります。しかし生前の面影は留めている筈です。遺体は無論動きはしません。安心して御覧になってください」 
 彼女は恐る恐る顔を近づけた。
「遺体の顔は縫合してあります。しかし生前の面影は残っていると思います」
「あの、どうも眼鏡がないと印象が」
「ええ、そのために予め別の眼鏡を準備しておきました」
 安田警部補は遺体に眼鏡を掛けた。
「これで如何でしょう」
 赤松は頷いた。
「ええ、前村誠二さんに間違いないようです」
「有難うございます。お手数おかけ致しました」
 赤松がモルグを出て行った。

 安田警部補はモルグの係官に尋ねた。
「アパートから持ってきたヘアブラシの指紋は、遺体の指紋と一致したかね」
「はい、一致しました」
「これで被害者は前村誠二に決まりだな。念のためDNA鑑定も頼むよ」
「承知致しました」
 

 ジェット機が丁度飛び立つ爆音が背後に鳴り響いていた。平日にもかかわらず、鹿児島空港は混雑状況にあった。
 亀田は昨日は、JR中央駅にて、駅員に聞き込み調査をした。国鉄時代の親方日の丸体質の所為だろうか、駅員は皆冷淡で、私立探偵なぞは歯牙にもかけない。調査は困難を極めた。列車の運行管理に多忙なのだった。
 亀田は途方にくれていた。
 空港も同様なのだろうか。ため息を付きながら、搭乗口の女性職員に歩み寄る。
「ちょっとすみません。少しお尋ねしたいのですが」
「はい、お客様はどなたですか」
「私立探偵です。この二枚の写真を見て頂きたいのですが」
 先ず麻里亜の写真を提示した。
「この女性に見覚えがありますか?」
「はい、覚えております」
「何ですって」
「前に同じことを警察の方に訊かれたんですの。その時は、覚えていないと答えました」
「それがまた何故?」
「後から思い出したんです」
「こちらの男性とは一緒でしたか」
「いいえ、女性お一人でした」
「確かでしょうか」
「ええ」
「何処行きに乗りましたか」
「ええ、確か東京行きでした」
「いつのことですか」
「ひと月程前のことです」
「別々にでも、こちらの男性は乗りませんでしたか」
「いいえ」
 背後で、大型旅客機が飛び立った。


 連日の聞き込み調査で、亀田は疲労していた。
 事務所に帰り、ウイスキーを空けた。BGMにレコードを掛けようとした。だが、プレーヤーが故障していて、回転しない。普段はオートストップを切れば、まわるのだが、パイロットランプも点滅するばかりだった。
 CDを掛けようとしたが、何となくしっくりこない。再度LPを掴んだ。ロバートプラントのファーストソロアルバム、11時の肖像。
 亀田はちょっと出掛けることにした。

 ポンコツ自家用車を走らせて、行きつけのカメラ店の前で停めた。その店は写真屋というより、オーディオ機器が所狭しと並んでいた。亀田は奥のカウンターに行って、聴けなかったLPレコードを提示した。
「店長、また頼むよ」
「今度はどうしました?」
 年配の職人肌の店長が訊いた。
「レコードプレーヤーが壊れた。今すぐ、このレコードをCDに焼いてくれないかな」
「今すぐって、亀田さん、順番待ちというものがあります。此方も仕事が溜まっていますので」
「いや、今すぐだ。お得意様じゃないか」
「困ります、本当に」
「困ることはないだろう。45分もあれば済むことだ」
「強引ですな。ええと、そうですね、まあ良いでしょうか」
「頼みます」
 店長は急がされて、レコードプレーヤーとCDRをセットした。勝手知ったる店らしく、亀田は自分でプレーヤーのスイッチを入れた。
「暑いな、ちょっとコートを置かせて貰う」
 コートをカウンターに投げ出した。
「暑いのに、今頃トレンチコートを着てらっしゃるから。幾ら探偵だからといって無理なさらなくても」
 亀田は勝手にロバートプラントのアルバムの音楽に没頭していた。
 トレンチコートのポケットから、二枚の写真がこぼれ落ちた。無造作にカウンターに置いた所為だった。
「亀田さん、何か落ちたらしいよ」
 店長は床の写真を拾った。
「この写真、商売道具じゃないんですか」
 店長は、何気なく写真を見た。
「…亀田さん、この写真は?」
「ああ、大事な商売道具だ。触らないでくれ」
「この写真は何だかおかしいです。ちょっと拝見」 
 店長は拡大鏡で、写真を調べた。
「亀田さん、矢張りこれはおかしい」
「どうした?」
「亀田さん、ロック聴いてらっしゃる場合じゃないようですぜ」
「何だって」
 漸く振り返る。一緒に写真を覗き込んだ。
「この女性と男性が写っている写真ね。ようく注視してご覧なさい」
「これがどうしたと云うのかね」
「良く見てみて」
「ああ」
「此処の二人の人物の、微妙な照明の色の違いがわかりますか」
「違うのかね」
「ええ、照明の色だけじゃありません。二人の足元の影の微妙な方向に気付かれませんか」
 亀田は最初呆気にとられ、深刻な表情に変わった。
「そう云われてみると、違うかもしれない」
「ええ…」
「つまり、どういうことになるのかな?」
 カメラ店店長は少しく得意げな顔を上げた。


 陽が落ちてから、五月雨が降り出した。闇が街に降りても、雨粒の灰色が下界を支配していた。天文館の一隅に、客のリクエストに応じて、数多くのアナログレコードを掛けてくれる酒場がある。洋楽レコード蒐集の豊富さで、マニアの間では有名な店だった。
 亀田はその店を指定して、夜の8時に逢うよう妄田に電話連絡していた。調査の途中経過報告が名目での呼び出しだった。
 亀田が店に着くと、妄田は先に来て、彼を待っていた。降りしきる雨には、亀田のトレンチは有用だった。
「今晩は、遅くなってすみません。ちょっと野暮用がありましてね」
 妄田は隣席を勧めた。
「構いませんよ。先に遣っておりました」
「ジントニックですか。私も同じものを頂きましょう」
 亀田は注文した。
「妄田さん、今夜は呑みましょう」
「どうかなさいました?」
「いえ、呑みたい気分なんです」
「そうですね、呑みましょう」
 二人の間に、暫く沈黙が訪れた。
 亀田が口火を切った。
「妄田さん、言語学をどう思われます?」
「はて、専門外ですので」
「そうでもないでしょう。真言宗は言語学に似ていると、聞いたことがあります」
「さあ、似ているとは思いませんが」
「そうですか。言語で杓子定規に世界が支配されているって、何だか鬱陶しくありませんか」
「おっしゃる意味合いは何となくしか分かりません」
「要するに、自己意識を持つことが出来ない訳ですよね」
「そういう側面はありますかな」
「ええ…で、本題に入りましょう」
 亀田はジンをあおった。
「麻里亜さんですが、ひと月前に、東京に旅立たれています」
「本当に、東京にですか」
「ええ、確かです。で、どうなさいますか。私が東京まで出向くとなりますと、出張費用が高くつきますが」
「それは是非とも行って貰いたい」
「本当ですか」
「勿論です」
「嘘ですね、明らかに」
「何ですって」
 妄田は相手の顔を見直した。亀田は極めて硬い表情だった。
「妄田さん、そろそろ本当のことを話して頂けませんか」
 双方暫し睨み合った。
「此処に麻里亜さんの手帳があります。申し訳ありませんが、彼女の部屋から勝手に持ち出してきたものです」
「麻里亜の手帳」
「ええ、で、此処にこういう詩のような一節があります」

 私の望みは、私自身になること
 私の望みは、私をキープすること
 私の望みは、男性に真実愛されること
 私の望みは、幸福な結婚

「また別の頁にはこう書かれています」

 前村さんは本当に、私を愛してくれているの?

「どうですか。これらの文が全てを顕しているとは思われませんか」
「いいえ、全く意味不明です」
 二人は各々のグラスを干した。
「二枚目を注文しましょう」
 グラスが来るまで待った。
「私はもう一つ、麻里亜さんの部屋から勝手に持ち出したものがあります」
「何ですかな」
「薬袋です。精神科の」
「それじゃ、もう全部ご存知の訳ですな」
「ええ」
「終わりだな」妄田の声は震えていた。
「その通りです。精神科の主治医は最初頑なに守秘義務を言い張っていました。しかし殺人事件の捜査と分かると、警察に全面協力してくれたそうです」
「……」
「妄田麻里亜と、前村誠二は同一人物ですね」
 妄田は頷いた。
「麻里亜は二重人格者だった。彼女のもう一つの人格は、男性で前村誠二と名乗った。信じがたいが真実です。彼女は男の人格のときは短髪の鬘を付けて、分厚い眼鏡を掛け、ロンドンブーツを履いて身長を高く見せた。恐らくファンデーションで化粧もしたでしょう。……私が調査したとき、二人一緒のところを誰も目撃していないので、おかしいと思ったのです」
「麻里亜は心底苦悩していた。貴様なんかに分かってたまるか」
「分かりますよ。この手帳の詩が全てを物語っている。貴方から預かった、二人一緒の写真は合成写真でした」
「貴様なんかに調査を依頼すべきではなかった」
「そうですね。多分私の従兄弟が刑事だから、私に頼みに来たのでしょう。警察の捜索がのろいから、尻を叩きに来た、くらいの意図だったのでしょう。飛行機の乗客名簿調査もしなかったくらいだから。きっと警察は忙しかったのでしょう」
「貴様なんかに、病気の娘を持つ親の気持ちが分かるか」
「しかし貴方は唯の人の親ではない。貴方は連続殺人事件の犯人だ」 
「うるさい」
「私を此処で切り刻みますか。後方では、私の従兄弟と同僚の刑事二人が、ピストルを持って待機している」
「分かった。娘は自己愛が高じて、人格分裂した。私はあの子に人並みの恋愛をして欲しかった」
「動機はそれですね。二重生活までしていた男性人格の方を、この世から永久に抹殺したかった。貴方の教団に、俗世を捨てて入信した男性を生贄にして」
「彼には済まなかった」
「全国の警察は勿論繋がっている。北海道の失踪者と、3番目の犠牲者の指紋が一致した。貴方は彼を、前村誠二の名前でアパートに住まわせていた……この人格抹殺のために、それを無差別猟奇殺人事件の一環に偽装工作した。貴方は、自分の一人娘のために、罪もない者を三人も殺害した」
 背後から安田警部補が静かに現れた。
「妄田善治、おとなしく同行して貰いたい」
「分かりました」
 彼は頭を下げた。

 独りになると、亀田はジンをあおった。レコードのリクエストをした。旧いザファームのミーンビジネスを。