甘いものはひとを幸せにすると思う。むしろ、世界平和?
 ケーキというのはそれくらい絶大な力を秘めているのだ。
 そんなことをケーキ屋のアルバイトの面接で言ったら、変わった子だねぇ、と店長に言われてしまった。それでも採用してもらえたのは、春花のケーキ愛が伝わったからなのだろう。そう思いたい。

 大学一年生になって、授業にも慣れてきた頃、片瀬春花はケーキ屋でアルバイトを始めた。
 甘いものが大好きな春花にとって、このバイト先は楽園のような場所だった。お店に入った瞬間に香る優しいクリームの甘み。それから少し甘酸っぱいいちごや柑橘系のオレンジの香りが鼻腔をくすぐる。
 香りだけで幸せになれちゃう。そんな風に思っていると、自然と笑顔がこぼれるようで、お客様にも先輩たちにも接客態度を絶賛された。
 そんな春花だが、このケーキ屋「りんどう」でひとつだけ苦手なものがある。もの、いや、ひと、と言うべきだろうか。
 パティシエの、連城優さん。
 彼はとても寡黙な男のひとで、大きい身体に似合わず繊細な菓子を作る達人だった。とは言ってもまだ若干二十四歳という若さで、プロのパティシエをやっているのだから大したものである。
 連城の作るどこか繊細で、それでいて大胆な発想のケーキが、春花は好きだった。しかし休憩で彼と一緒になっても、何も話すことが出来ない。人見知りはしない方だと自負しているが、何を話しかけても一言返ってきて終わり、という会話とも呼べないそれが続けば、さすがの春花も心が折れるというものだ。
「連城さん、この間の新作ケーキ、すっごく美味しかったです!」
「ありがとう」
「オレンジと抹茶って意外と合うんですねぇ! 新しい発見でした」
「そう」
「えーっと……」
 それから、それから。
 頑張って話題を捻り出そうとするものの、春花は連城のことを何も知らない。共通の話題といえば、この「りんどう」という店と、ケーキのことだけだ。
 近寄りがたいなぁ……というかもしかして、私、嫌われているんじゃない?
 そんな考えが頭をよぎり、春花は黙り込む。うるさくしすぎただろうか。それで話をしてくれないのかも。だとしたら黙っていた方がいいだろう。
 沈黙の続く休憩室で、春花は居心地の悪さを感じながら、試食のケーキを口に運ぶ。ふんわりとしたレモンクリームとさくさくのタルト生地。食べた瞬間、んーーー! と思わず歓喜の声がこぼれる。
 連城に見つめられていることに気が付き、慌ててうるさくしてすみません! と謝る。すると、片瀬さんは美味しそうにケーキを食べるね、と初めて連城から話しかけてくれた。
「そうなんです! 私、甘いもの……特にケーキが大好きで! こんなに幸せな気分になれる食べものって、ケーキくらいだと思うんです!」
 春花の語るケーキ愛に、連城はきょとんと目を丸くする。それから少し目を細めて笑った。
「こんなにケーキを熱く語るひと、初めて見た」
 その笑顔がなぜかとても優しかったから、春花は不覚にもドキッとしてしまう。
 連城のことを苦手だと思っていたはずなのに、おかしいな。
 そんなことを考えながら、熱くなった頰に手を当て、誤魔化すように笑った。

「片瀬さん、仕事終わった?」
 アルバイトをこなし、次のバイトの子へ引き継ぎを終えると、連城に声をかけられる。春花は思わぬひとからの声がけに驚いて、こくこくと頷く。
「じゃあちょっとこっちに来られる?」
「はいっ!」
 元気よく返事をして連城についていくと、そこはキッチンの片隅だった。翌日の仕込みをしているひとや、ケーキのお供になる紅茶の準備をしているひとがいる中で、連城は小さなケーキをたくさん作っていたようだ。
「かわいい……」
 ひと口サイズのケーキは、おもちゃのようでかわいらしい。それでもひとつひとつが凝った作りをしていて、とても美味しそうだ。定番の苺のショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン。中でも一番目を引いたのは、桃色、クリーム色、黄緑色の三層のスポンジにふわふわの生クリームとさくらんぼが乗ったケーキだ。
「ひなまつりみたい」
 ふふ、と思わず笑みをこぼすと、連城は嬉しそうな声を上げる。
「分かる? 来年のひなまつりに向けて、商品開発をしていたんだよ」
「もうですか?」
 まだ夏なのに、と言うと、夏だからだよ、と答えが返ってくる。
「夏はケーキの売れ行きがあまり良くないから、その分開発に時間をあてられるんだ」
 いつもは物静かな連城が、珍しく饒舌に語るものだから、春花はなぜか少し嬉しくなってしまった。
「私はケーキが大好きだけど、連城さんもなかなかですよね」
 食べるひとと作るひとじゃ、熱量が全然違うのかもしれないけれど。
 そう付け加えると、連城は恥ずかしそうに頰を染めてそっぽ向いた。
「……同じだと思うよ」
「えっ?」
 思わず聞き返した言葉は、繰り返されることはなかった。だけど春花の耳にはちゃんと届いていた。
 春花の愛するケーキを作り出してくれるパティシエ。その一人である連城が、ケーキを作るひとも、食べるひとも、愛していることに変わりないと言ってくれる。そのことがただ嬉しかった。
「……これ、片瀬さんに味見してもらいたいんだ」
 連城がそっぽ向いたまま、ぽつりと呟く。これ、というのは、かわいらしいミニケーキたちのことだろうか。
「いいんですか!?」
 思わず笑顔がこぼれて、身を乗り出して訊ねると、連城は春花の方をちら、と見て頷いた。
 ひとつ、またひとつ、とゆっくり味わっていく。小さいけれど、どれも繊細な味わいのケーキだ。拙いながらも感想を述べながら食べ進めていくと、連城がふいに笑みを浮かべる。
 それが珍しくて、春花は目を丸くする。どうしたんですか? と訊ねると、連城は口元を手で隠しながら答えてくれた。
「片瀬さんは表情豊かだから……すごく参考になるなと思って」
「…………もしかして、ちょっとバカにしてます?」
「いや? 褒めてるよ」
 甘酸っぱいケーキにびっくりしたり。ほんのりとした優しい甘さにうっとりしたり。そんな春花の反応を見て、連城はどうやら楽しんでいたようだ。それでもケーキ作りの参考になるのなら喜ぶべきだろうか。
「ごちそうさまでした」
 両手を合わせて頭を下げると、連城がお皿を片付ける。慌てて手伝おうとすると、仕事終わりに付き合わせてごめんね、と連城が言う。
「そんな! 美味しいケーキを一番に食べさせてもらえてハッピーですよ!」
 本心で言ったことだったが、何かが連城のツボに入ったらしい。静かに笑いを堪える彼の姿に、春花は少しだけ恥ずかしくなる。
「おつかれさま」
 やわらかい声とともに、ぽん、と優しく背中を押される。心臓がドキッと音を立てたのは、きっと彼の声があまりに優しかったからだ。

 それから連城は新作のケーキを作るたびに、春花に食べさせてくれた。相変わらず連城は寡黙だったけれど、春花の前でケーキのことを語るときだけは少し口数が増えて、それが春花は何となく嬉しかった。
「連城さんはどうしてパティシエになろうと思ったんですか」
 あるとき、春花がずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。なぜなら連城は、高校時代は野球部で甲子園にも出場したことがあるというのだ。体育会系の彼が、どうして正反対の菓子作りの道を選んだのか気になった。
 連城はとろとろに溶けたチョコレートをスポンジケーキに丁寧に塗りながら、なんでだろうね、と言葉を濁した。言いたくないのかな、と話題を変えようとしたときだった。
「……誰かを自分の作ったもので幸せにしてみたいって思ったからかな」
「素敵な動機ですね」
「そう?」
 照れ臭そうに笑って、連城は再びケーキ作りに没頭する。美味しそうなザッハトルテが作られていく過程を見つめながら、春花はぽつりと呟く。
「連城さんの夢はもう叶ってますね」
 再び顔をあげた彼が、不思議そうな表情で首を傾げる。春花は連城の作ったケーキの味を思い出しながら、笑って言葉を続けた。
「だって連城さんのケーキを食べると、私はすっごく幸せになれますもん!」
「…………」
「かわいくて美味しくて優しい味がして、連城さんの気持ちがこもってるんだなぁって思います」
 へら、と間の抜けた笑みを浮かべてそう言った春花に、連城は少しの沈黙の後、ふっと優しく笑ってみせた。
「片瀬さんにそう言われると、やる気が出るな」
 ドキン、と胸が大きく鳴る。
 どうしてだろう、連城といると心が騒がしくなるのは。
 その気持ちの名前を知らぬまま、春花はごまかすように笑い返した。

 八時間労働のシフトの日は、休憩の一時間が至福の時だ。少しだけわくわくしながら休憩室に入ると、そこには連城の姿はなかった。
 今日は休憩が一緒の時間じゃないんだ、と少しがっかりする自分がいることに気がついて、春花は首を傾げる。
 連城の優しい笑みを見たあの日から、春花は彼を意識してしまっていた。それが恋なのだということには気づかないまま、春花は無意識に連城を目で追うようになっていた。
 休憩室で小さなお弁当箱を広げ、お昼ご飯を食べる。ひとりぼっちの休憩はつまらないな、とぼんやりしながら箸をすすめていると、ふいに休憩室のドアが開く。
「連城さん! 休憩ですか?」
「いや、上がり」
 連城はタイムカードに退勤時刻を記入しながらそう答える。
「そっかぁ」
 てっきり休憩に入るのが少し遅れたのかと思って、期待してしまった。しょんぼりと肩を落とした春花を見て、連城は何も言わずに春花の正面の椅子に腰掛けた。
「あれ……? 帰らないんですか?」
 連城は、基本的に残業があるとき以外はさっと帰ってしまうタイプだ。同僚たちでご飯に行こうという話をしていても、自分はお先に失礼します、と帰っていく一匹狼のような存在である。
 だからこそ、退勤をした後に休憩室で座って休む、などという行為が珍しくて、春花は思わず目を丸くする。
 頬杖をつきながら洋菓子の特集が組まれている雑誌に手を伸ばした連城は、帰らないよ、と答えた。
「珍しいですね、連城さんがこうして残るの」
「…………そりゃあ、寂しそうな子犬みたいな顔されたらね」
「………………?」
 どういう意味だろう、と考えること数秒。頭の中で連城の言葉の意味を理解し、春花は赤面した。
 私、そんな顔してた……?
 連城に帰ってほしくないと訴えかけるような、寂しそうな顔をしていたのだろう。そう考えると恥ずかしくてたまらない。
「あ、あはは。えーっと、あっ、そうだ! 今日は高橋さんが作った試食があるみたいですよ!」
 ごまかすように話題を変えて、休憩室に置かれていた試食のケーキへと手を伸ばす。連城より先輩のパティシエ、高橋作のケーキは、ティラミスだった。
「いただきます」
 しっかり両手を合わせて挨拶した後、フォークを手に取る。そしてしっとりとしたティラミスを口に運ぶと、コーヒーの苦味とフロマージュの甘さが溶け合って、一瞬で幸せな気分になれる。たったこれだけでアルバイトの疲れもどこかへ飛んでいってしまうのだから、我ながら単純である。
「美味しい! 大人の味わいって感じです、さすが高橋さん……!」
 高橋はもうすぐ四十歳になるベテランのパティシエなので、作るケーキも安定した美味しさがある。
 にこにことしながら春花がそんなコメントをすると、雑誌を見ていた連城がふいに顔を上げる。視線が交わり、ドキッと心臓が音を立てた。
「……何か複雑な気分」
「えっ?」
 連城の方から話しかけてくれるとは思わなくて、嬉しい気持ちを隠しながら、春花は首を傾げる。彼は少し眉を寄せて、ぽつりと呟いた。
「確かに高橋さんの作るケーキはすごいよ。俺はまだ敵わない」
「……?」
「でも、片瀬さんが高橋さんのケーキで幸せそうな顔してるのは、複雑な気分」
 意味を理解するのに、また数秒かかった。先とは違い、連城に見つめられる中での数秒は、なぜだかひどく長い時間に感じられた。
 私が高橋さんのケーキで幸せな気持ちになると、連城さんは複雑な気分なの? なんで?
 しばらく考えて、春花の脳に浮かんだひとつの単語は、ヤキモチというそれだった。
 全身が、一瞬で熱くなる。勘違いかもしれない。でも、もしかしたら、と思うと顔が熱くてたまらない。
 それってどういう意味ですか、と訊いてみてもいいのだろうか。
 しかし春花は連城の視線に晒され続けながら、その質問をする勇気はなく、結局訊けずじまいだった。

 季節は巡り、秋が来て、冬が過ぎ、春になった。
 秋にはかぼちゃや栗、さつまいものスイーツがたくさん出て幸せな気分を味わえたし、冬はクリスマスからお正月、バレンタインまで繁忙期が続いた。そうしてようやく迎えた春、ケーキ屋としての三大イベントであるひなまつりがやってくる。
 以前連城に食べさせてもらった三色ケーキや、苺のショートケーキをひな人形の砂糖菓子でデコレーションしたケーキなど、華やかな色合いのケーキが店頭には並んだ。
 鼻歌交じりにショーケースの飾り付けをしていると、珍しくキッチンから出てきた連城に聞かれてしまった。
「どうしたの、春花ちゃん。ずいぶんご機嫌だね」
 最近になって、連城は春花のことを苗字ではなく名前で呼んでくれるようになった。以前よりずっと会話も増えて、仲良くなれているんだ、という実感が湧いて嬉しい。
 そして同時に、連城から向けられる優しい視線にも気がついていた。きっとそれが恋なのだと、春花は理解しながらも、なかなか一歩を踏み出すことが出来ずにいた。
 春花は今まで恋をしたことがなかった。連城に対するこのふわふわした気持ちが、きっと恋なのだろうと思う。それでも、初恋というやつは厄介で、距離の詰め方が全く分からないのだ。春花から告白していいのだろうか、それともきっと同じ気持ちを抱いてくれている彼の告白を待つべきか、春花は悩んでいた。
「明日、ひなまつりですよね。私、誕生日なんです!」
 だからなんか嬉しくて、と言って笑うと、連城が驚いたように目を丸くする。
「春花って名前だから春生まれなんだろうなぁと思ってたけど、ひなまつりなんだ」
「えへへ。ひなまつりと言ったら桃の花でしょう? 桃の花は春の花だから、春花って名前なんです」
 お母さんってば単純だから、と照れ笑いすると、かわいい名前だと思うよ、と連城が優しく呟く。その言葉にドキッとするのは、春花が彼に恋をしているからだ。今までは分からなかったこの気持ちの名前も、今なら分かる。
「明日誕生日なら、何かケーキを作ってあげるよ」
 何味がいい? と連城に訊かれ、春花は間髪入れずにチョコレート! と答えた。
「チョコレートケーキがいいです! 連城さんが作ってくれるんですか?」
「もちろん」
「やったぁ! 連城さんのケーキ、大好きだから楽しみにしてますね!」
 ひなまつりはきっと忙しいだろうが、連城のスペシャルケーキが待っていると思えば頑張れそうだ。
 笑顔でそう告げると、連城も嬉しそうに笑ってくれた。

 翌日、ひなまつり。
 予想通り、「りんどう」にはお客様が殺到した。この辺りで有名なケーキ屋ということもあり、常連ではないひともたくさんやって来て、店は一日中混雑していた。ケーキがいくつあっても足りないくらいで、夕方過ぎには全てのケーキが完売してしまった。
 クリスマスほどではないものの、ひなまつりもケーキを食べるものなんだなぁ、と春花は他人事のように感心した。なぜなら春花にとって三月三日は誕生日であり、ひなまつりは女の子の行事といえど、おまけのようなものだったからだ。
「お疲れ様、今日は早く上がっていいからね」
 ケーキがなくなっちゃったから早仕舞いだよ、と店長が言うので、春花はその言葉に甘えて退勤することにした。
「春花ちゃん、おいで」
 私服に着替えた後、連城に呼び出される。休憩室には、連城と春花の二人きりだった。
 連城がキッチンから持ってきてくれたのは、約束の誕生日ケーキである。つやつやのチョコレートに、大きな苺の乗った贅沢な一品。これは店に並んでいるところを見たことがないので、連城が春花のために特別に作ってくれたのだろう。
「わぁぁ! かわいい!」
 記念に写真を撮って、連城に勧められるがままにひと口。ほろ苦いチョコレートが口いっぱいに広がる。
「これ、ビターチョコレートですか?」
 チョコレートケーキには珍しい、少し苦めの味だったので驚いて訊ねると、そうだよ、と連城は優しく笑う。
 ビターチョコレートの苦みとラズベリーソースの甘酸っぱさが混ざり合って、思わず笑顔がこぼれる。
「美味しい……!」
 本当はもっと甘いチョコレートケーキを想像していたのだが、ビターチョコレートのケーキというのも悪くない。むしろ、とても美味しい。にこにこと笑顔を隠すことなく食べ進めていると、ふいに連城が問いかけてきた。
「ビターチョコレートを甘くする、魔法の言葉、知ってる?」
 もう少しだけ甘さが欲しいな、と思っていたのがバレてしまったのだろうか。ドキッとして首を傾げると、彼は優しく低い声で囁いた。
「…………春花ちゃんのことが、好きだよ」
 きゅん、と心臓が音を立てた気がした。
 胸の奥がきゅうと痛み、その言葉を噛み締める。
 きっと彼も私のことが好きなんだろうな、とは思っていた。それでも連城がまさか告白してくれるとは思わなくて、嬉しさに口元が緩んでしまう。
「…………えへへ」
「そういう、感情が全部表に出るところ、かわいいと思う」
「……なんですか、急に。ずるいですよ」
 そんな風に褒められたら照れちゃう、と頰を押さえて呟く。すると連城は、春花ちゃんもひとつ大人になったし、いいかなと思って、と笑った。
「十九歳って、子どもに見えません? 大丈夫ですか?」
「子どもだと思ってたら告白なんてしないよ。逆に二十四歳っておっさんに見えない? 大丈夫?」
「連城さんは大人のお兄さんって感じです!」
 思ったままのことを言うと、連城は安堵のため息をこぼした。それから少しの沈黙の後、まだ告白の返事を聞いてないんだけど、と上目遣いに訊ねられる。ドキッと心臓が大きく悲鳴をあげた。
「…………私も、連城さんのことが」
 すきです。そう言いかけて、言葉を飲み込む。連城の大きな手が、春花の口元を押さえたからだ。
 どうしたんですか? と首を傾げると、やっぱり待って、と言われてしまう。
 告白を止められるということはつまり、さっきの好きという言葉を撤回されてしまうのだろうか。しょんぼりと落ち込む春花に、連城が慌てたように声を上げる。
「そうじゃなくて! ……あと一年、待っててもいいかな」
「えっ?」
「今付き合ったら、手を出しちゃいそうでこわい」
 春花ちゃんのことを傷つけたくないから、と連城は言う。
 手を出すって。つまり、キスとか、その先のこととか、そういうことですか。
 ひとりでそんなことを考えて春花は赤面する。連城に手を出されても傷つくことはないだろうが、ドキドキし過ぎて死んでしまうかもしれない。
 二十歳になったら、手を出してもいいのかな。それが大人になるということなのだろうか。
 黙り込んだ春花の顔を、連城は心配そうに覗き込む。
「一年は長すぎる?」
「ううん、ちょうどいいです」
 心の準備をするのに、と心の中で付け加えて、春花は微笑む。
「大人になった私の魅力に、連城さんをメロメロにさせてみせますから。待っててください」
「うん、楽しみに待ってる」
 いたずらっ子のように笑った彼に、きゅんと胸が鳴く。今のところこの勝負は連戦連敗だが、いつか必ず連城をきゅんとさせてみせる。
「好きだよ、春花ちゃん」
 やわらかく囁かれた甘い言葉にときめきながら、知ってますよ、と余裕ぶった答えを返した。
 食べかけのチョコレートケーキを口に運ぶ。
 さっきまで苦かったはずのビターチョコレートは、とびっきり甘いチョコレートケーキに変わっていた。