「さっき香坂さんに会ってきたよ。相変わらずイケメンだよね」

 外回りから戻ってきた同僚が、隣の席の私を小突いた。

「でもアイツ、すっごい口うるさいよ?」

 照れもあって、彼の愚痴を口にした。


 営業先で知り合った彼は、私の理想に近い条件を満たしているのだが、やや神経質な面があった。マナーや言葉使いなど、言い方は優しいものの、けっこう細かく注意される。

  はじめは素直に謝っていたが、一度ムッとして反発したら喧嘩になった。

  その時、折れて謝ってくれた彼の態度が素敵だったから、私は時々わざと反発するようになり、それが5回に1回、3回に1回と増えるにつれ喧嘩の中から甘さが消えて、本当に険悪な空気になることが多くなってきた。


 それでも最後には折れてくれるから、私は思い違いをするようになった。

――育ちが良くて仕事が出来て、みんなに羨ましがられる彼氏に、私はこんなに愛されてる。


 彼に釣り合う恋人でいるために努力したことなんて、ほんの少し表面を飾ったぐらい。中身に関しては、ありのままの私を好きになってくれたんだから、直す必要なんてないと思っていた。



「余裕ぶってていいの?」

 同僚は意地悪そうな笑みを浮かべて言った 。

「香坂さん、補佐で組んでる子と雰囲気よさげだよ。ガサツなあんたと比べて女らしいし」

 担当が変わったせいで、私と彼が仕事で会う機会は、前より少なくなっていた。

「油断してると取られちゃうかも」

「そんなの、ありえないから!」

 自分でびっくりするほど強い言葉が口から飛び出した。



 気が付いてはいた。

「何か言いたいことあるんじゃないの?」

「……別に」

 だんだん、注意や小言の代わりに溜め息をつかれるようになった。

 口うるささがなくなれば優しさだけが残ると思っていたのに、彼は私から視線をそらし不機嫌そうに口を閉ざす。

 私がトゲを含んだ言葉で突っかかっても、投げやりな謝罪で会話を終わらされてしまう。

 苛立ちばかり、どんどん積み重なっていく。

 それはお互い様だったらしく、デートの別れ際に「またね」と言っても返事が返って来なくなった。



「話がある」

 仕事を理由に会えない日々が数週間続いた後、唐突に呼び出された。

 彼らしくないチープなカフェを指定された時から、なんとなく予想はついていた。

 案の定、別れを切り出されたが、事ここに至っても、まだ私は何もわかっていなかった。

「しつこく根に持たないで、機嫌くらいさっさと直したら?」

 こんな試すような別れ話なんかやめて、優しい言葉で甘やかしてくれたら、私だって意地悪なこと言わなくて済むのに。

「機嫌が悪いわけじゃない」

 彼は大きな溜め息をついて、ちらっと私を見た。

「気に入らないんなら別れたっていいって、前から言ってただろ?」

「それは……」

 彼は本気だ――そう感じた瞬間、足元から震えが上がってきた。

「私のこと好きだって、あなたから言ってきたんじゃない!」

「悪いけど、もう好きじゃなくなった」

 にべもなく言い切り、彼は腕時計を見た。真新しいそれは、彼の好きなブランドの新作だった。

 彼のバースデープレゼントにと、私が密かに用意していたのと同じものだ。

 でも誕生日も会えなかったから、まだ渡せていなかった。

「我慢の限界。お互いのためにも別れた方がいい」

 彼は私の返事も聞かず席を立った。


 その日から、彼と連絡が取れなくなった。

 同僚によると仕事は変わりなくこなしているようだから、私の電話番号もアドレスもアカウントも、何もかもブロックされただけのことだ。

「あんな細かい男、耐えらんなかったし」

 私から別れを告げたことにして、親しい子に話すのが精一杯だった。

 それにしては別離の実感がない。

 彼を好きだと思っていたのは勘違いだったのか。
 それとも、ハイスペック男子に告白されて、舞い上がっていただけだったのか。

 一滴の涙も出ないまま、仕事に対してのやる気やオフタイムを楽しもうという気持ちが薄れていき、私は惰性でぼんやり日常を繰り返していた。