小石に向き直って口を開いた時、また演奏が始まった。
 キラキラと走る木管に、颯爽と登場したホルンの音。
 この出だしは――『木星』だ。

「まずは、多幾先生に相談してみよう。
 事情を話して、去年演劇部の顧問だった先生を教えてもらうんだ」

「…………」

「元顧問に、太巻先生役だった先輩の名前、元担任が誰だったかを教えてもらう。
 で、元担任に、先輩の連絡先を教えてもらうんだ」

「……!」

 小石が目を見開き、ようやく睨みを解除した。涙も止んでいる。

「個人情報なんて……教えてもらえる?」
 声はまだ掠れているが……良かった、クールダウンしてくれて。

「『お金を返したい』って事情を話せば、教えてくれそうじゃないか?
 何なら今みたいに泣いて、情に訴えろ。だめなら、学校通して連絡を取ってもらえばいいし」

「そもそも、卒業生の連絡先の情報って、破棄されてないかな?」

「その時は、また考えよう。
 俺、最後まで付き合うからさ。諦めんなよ!」

 言った直後、見る見るうちに小石がさっきの顔に戻り、大粒の涙を(こぼ)し出した。

「なんでまた、睨むんだよ」

「……なんで?」

「え?」

「なんで、そんなに助けてくれるの?
 昼休みも私を励ますために、わざわざ誘ってくれたんでしょ?
 タオルと体操着のお礼なんて、とっくに超えてる。私、蓮君に借りっぱなしじゃない?」

 ホルンが第三主題を奏で始めた。

「いや、昼休みはそんなんじゃねーぞ」
『思い出作り』という、俺の私利私欲のためだ。

「えっ? でも、『頑張れ』って言ってくれたよね?」

「あぁ……まぁ……。
 いや、でも、貸しとか無いし。寧ろ、小石に過払いされたというか」

「どういうこと?」

「…………」俺は再び下を向いた。

「ねぇ、蓮君? 今日はなんか、ちょっと変。
 切なそうっていうか……何か悩んでない? 聞くよ?」

(まさか、俺の心配もしてくれてた?
 今日は小石にとって、とても大事な日だったのに)

 小石に視線を戻す。
 俺を直視するその目は、いつの間にか輝きが戻り、表情は『睨み』から『奮起』に変わっていた。

「――あぁ、悩んでるよ」
 シンバルが鳴り響く。

「うん」

「そうだよ、切ないよ」

「うん」

「でも、言えないんだ……」

 ティンパニーの音を境に、静かになった。

「私も何か蓮君の力になりたいの。私にできることがあれば、何でも言って!」
 

「なら――」
 

 こんなことしか思いつかない。


「『頑張れ』って、言ってほしい」
 

「分かった!」

 木星の一番有名な、第二部の、あのメロディーが始まる。

 小石が立ち上がり、俺の腕を掴んで引っ張る。俺は彼女に誘導されるまま、屋上へ出た。
 小石が手を離すと、俺から距離を取り、屋上の端まで走った。
 回れ右でくるりと、こちらに体を向ける。
 そして両手を口元に当て、

「頑張れ!」

 凛々しい表情で放たれた、大きな声。

「って、おい、屋上でそんな大声っ! 先生とか聞いてたら、飛んでくるだろ!?」

「あははっ! 大丈夫。木星がカバーしてくれるよ」
 
「頑張れ!」もう一発。

「…………」
 
「頑張れ!」もう一発。

「…………あぁ」

 次第に増えた楽器が、クレッシェンドしていく。
  
「蓮君! 頑張れーーー!!」




 最後は、思いっきり腹の底から出した、堂々とした大声。
 荘厳な曲想とシンクロして、なんかもう、神々しい。

(何だこれ、涙出そう)

 喉の奥が詰まる。視界が滲む。

(ダメだ。小石のことが、物凄く好き!!!)

「頑張る……」

 呟いた声が震える中、第二部が終わった。

 小石が息を切らして、こちらにかけてくる。
 第三部が始まり、静かな中、木管達が鳴り始める。
 上気した頬に、まだ張り付いている髪。涙の跡なんて分からないほど、汗まみれで。
 まだ高い西日に照らされ――キラキラと輝いて、物凄くキレイだ。

「はぁ、はぁ……どう、かな?」

「はははっ! やっぱり、切ない!」

「えぇ〜? 何で!?」

「いや、響いたんだ。
 響いたから……俺、頑張るよ!! ありがとう」

 言いながら、俺は笑った。
 今度は、ちゃんと笑えた、と思う。

「本当? 良かった!」小石も笑ってくれた。

「ひとつ、確認してもいいか?」

「何?」

「お前、太巻先生のこと、さらに好きになっただろ?」

「えっ!!」

「最初から返金してもらう気無しの『入学したら返しにおいで』、カッコ良す過ぎだよな」

「んっ……!」

 図星のようだ。小石が下を向く。
 その顔が、みるみる林檎のように真っ赤になる。

「蓮君、鋭すぎる……!」

(太巻先生の株、爆上がりじゃねーか。クッソ腹立つな〜!)

 木星は、まだ続く。
 俺の初恋も、もう少しだけ続くようだ。