バタフライ  風音ソラ

 僕はずっと一人だ。それは今も変わっていない。いつから一人なのか何故そうなったのかも分からない。ただ心はいつも渇望し、何かを求めている。それが何なのかも今となっては分からなかった。

友崎 凪は明け方の空を一人見つめていた。

人は皆、孤独だ。その事実を認めるか認めないかでその後の人生が変わってくる。

僕は自分が一人なのを認めたくなかった。
いや、正確にはずっと前からそのことに気づいていた。

「さよなら」
「元気でね」
「大好きだったよ。凪くんの横顔、、」

あかりに言われたことを思い出す。
その言葉が今も僕の心の中で永遠にリピートされていた。

やがて空が朝焼けに染まるころ僕は新しい自分を生きようと決めていた。そう、友崎 凪は一度死んだのだ。


「友崎くん。ちょっと良いかな?」
凪はセンター長に呼ばれた。

「悪いんだけど今日でバイト終わりね。本当はこんなこと言いたくないけど君、ミスが多いから、、」

凪は何も言えなかった。

「今日も配達先間違えてお客さんからすごいクレーム来たから。僕が対応するの大変だったんだから、、」

「すいません。分かりました。お世話になりました」

「あ、制服そこに置いといて。それと今月分振り込んどくから。おつかれさま」

センター長はこちらに視線を送ることもなく凪に告げた。

凪はこの仕事が好きだった訳ではない。
それ以外に他に選択肢がなかった。

凪はロッカールームで着替えてバイト先の郵便局を後にした。

立ち去ろうとする凪に誰かが声をかけた。

「凪!」

そこにはバイト初日から面倒をみてくれた戸塚の姿があった。

「凪。今日までなんだってな、、」

「寂しくなるな、、」

「戸塚さん、ありがとうございました、、」

立ち去ろうとする凪の後ろ姿に戸塚が声をかけた。

「凪! お前はよくやってたぞ! また会おうな。約束だぞ!」

背中の後ろで戸塚が叫ぶ声が聞こえた。
凪は涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて走り去ったー

どれくらい走ったのか分からなかった。

交差点の信号が赤に変わり凪は足を止めた。
凪の頬には微かに涙の跡があった。

真夏の照りつける太陽の下で交差点の横断歩道が陽炎のようにユラユラと揺れていた。
薄れてゆく意識の中で遠くでセミの鳴き声が微かに聞こえていたー


◇◇◇

 「あれ、ここは、、」
凪が目を覚ますと眩しい光の中で電灯の光が微かに見えた。

「目覚めましたか?」
白衣の看護師が凪の側で点滴のチューブを外していた。

「ここは、、?」
「昨日、この病院に運ばれて来たんですよ」
看護師は優しく微笑んだ。

「僕、倒れたんですか、、?」

「ストレスと疲れによる貧血ですから大丈夫ですよ」

「ゆっくり起き上がれますか?」
「はい」

「カーテン開けますね?」
「いい天気ですよ」
「暑くないですか、、」

「いえ、大丈夫です」

「もうすぐ、お食事の時間ですからお持ちしますね」

「ありがとうございます」

「食べられるだけで大丈夫ですからね」
「ゆっくり食べてくださいね」

それだけ言うと看護師はニコリと笑いパタパタと病室を出て行った。

凪がぼんやりと病室のベッドから窓の外を見つめていると、やがて、朝食が運ばれてきた。

「ゆっくり召し上がってくださいね」
「明日には退院出来ますよ」
「ゆっくり散歩でもしてみて下さいね」

ニコリと笑い看護師は病室を出て行った。

凪は小さなパックのオレンジジュースをひとくち口に含んだ。

「美味しい、、」

 食事を終えて凪は殺風景な病室の中を見渡した。ベッドの横の白い棚には本が数冊置いてあった。凪はその中の一冊の本を手に取った。その本は昔、凪が幾度となく読んだ小説だった。

不意に涙が溢れてきた。
凪はその小説をそっと棚に置いてはじめて人の温もりに触れた気がしていた。

翌日、凪は退院前に病院の中を歩いた。
中庭には緑の樹々が茂っていて命の鼓動を刻んでいた。

ナースステーションではナースコールが鳴っていて看護師たちがテキパキと対応していた。病院の廊下は綺麗に磨かれていて日光の光が微かに反射していた。

 凪が窓の景色に見とれていると肩に何かが当たった。

「ドン!」

「痛てっ!」

凪が驚いて振り返るとひとりの女性が笑っていた。

「おはよう!目が覚めた?」

「全くビックリしたんだから。いきなり信号の前で倒れるんだもん」

「誰なの?」

「ちょっと!私が救急車呼んであげたの!」
「大変だったんだから、、お礼くらい言ってよね!」

「あ、ありがとう」
「それじゃ足りないけど、まっ良いか」
「心配で見に来たんだ、、」
「元気そうで安心したよ」

「ありがとう」
「助けてくれてありがとう」
凪は心からの言葉を伝えた。

「いいよ。気にしないでね。それじゃ私、行くとこあるから。またね!」

それだけ言うと何事もなかったかのように凪の前から姿を消したー

凪は不思議な気持ちだったが素直に嬉しかった。

翌日、凪は病院スタッフに見送られて退院した。凪にはこの数日の出来事がとても長い時間のように感じられていた。

◇◇◇

 「次の方どうぞ」
「一万五千五百円になります」
凪は春海総合病院を訪れていた。
先日の入院費を支払いに来ていた。

「ちょうどお預かりします。お大事に。」
支払いを済ませ軽く会釈をして重い足取りで病院の通路を歩いた。

病院の待合室は外来の受付で混んでいた。
この病院を訪れている人たちにはきっとその数だけ人々のドラマがあるはずだ。
凪はそんなことをぼんやりと考えていた。

病院の外に出ると小雨が降っていて傘を忘れた凪は濡れながら歩いた。

やがて空が暑い雲に覆われて大粒の雨が凪の体を濡らしていた。

凪は土砂降りの雨の中を歩いていた。
やがてゴロゴロと雲が唸る音が聞こえていた。凪はびしょ濡れになっていたがそれでもいいと思っていた。気づけば辺りは真っ暗になっていた。

「濡れるよ」

凪の肩に黄色いパステルカラーの傘がかけられていた。

そこにはあの日、凪を救ってくれた女の子が笑っていた。

雨はいっそう激しさを増して二人の身体を濡らしていた。

「風邪引くよ、、これあげるからちゃんと持って。」

「ありがとう」

「そんなの良いから。急ごう」

「この先に私のおばあちゃんの家があるから、そこまで急ごう」

二人は走り出した。バシャバシャと水たまりの水が弾けて足元を濡らしていた。

二人は大通りを抜けて公園の横を通り細い通路を走った。

「凪。こっち!こっち」

導かれるように数百メートルほど走るとやがて古い民家が見えてきた。

遠くで雷の音が聞こえていた。
門の前に着いて二人は呼吸を整えた。

「ここだよ」

「おばあちゃん!萌だよ。開けて!」

やがて玄関のドアが開いてひとりの老婆に迎えられた。

「萌かい。どうしたんだい?」
「病院からの帰りに急に通り雨が来たの」
「ちょっと休ませて」

「そうかい。大丈夫かい?」
「全然。平気」

凪は門の前で立ちすくんでいた。

「凪も上がって」

「でも、、」

「いいの。この前退院したばかりなのにまた風邪引いちゃったら洒落にならないから、、」

「おばあちゃん。凪くん。私のお友達」

萌のおばあちゃんは慈愛に満ちた笑顔を見せた。

萌は慣れた様子でバスタオルを二つ抱えてその一つを凪に差し出した。

「いいから上がって。」

凪はこくりと頷くと萌からバスタオルを一つ受け取った。

家の外では雷がゴロゴロと鳴り、時折閃光のような光と轟音が聞こえていた。

「危なかったね、、」

萌はショートカットの髪の毛を拭きながら凪に向かって言った。

「あ。そうだ。名前言ってなかったね」

「萌。明音 萌」

「凪。友崎 凪」

「知ってるよ」

「どうして。名前知ってるの?」
凪は不思議そうに萌に聞いた。

「何言ってんの。君の入院手続きしたでしょ」

「ごめん、、」

「良いから。いいから。これに着替えて!弟のだけど、、」

凪はぼさぼさの髪を拭いて萌に渡されたスウェットに着替えた。

「雨止むまで居ていいよ」

「何から何までごめん、、」

「別に良いから。それより【ごめん】は禁止だよ」

「街で倒れた人助けるの人として当たり前でしょ」

「喉乾いたでしょ?」

そう言うと萌は台所から二人分の麦茶を持ってきた。

窓の外では土砂降りの雨で霧が立ちその光景はまるで夏の雪のように凪には感じられた。
萌は一口麦茶を飲んで凪から少し離れた場所に座った。さっきまでの萌が嘘のように何も話そうとはしなかった。

時間だけがただ過ぎていった。薄暗い部屋の中で蛍光灯の光がチカチカと点滅して萌の横顔を照らしていたー

どのくらいの時間が過ぎたのだろう。目を閉じて小さく丸まっていた凪を呼ぶ声が聞こえた。深い意識の中で凪は萌の声を聞いていた。

「凪。凪、、起きて」

凪がゆっくりと目を開けると薄暗い部屋の中に眩しい光が差し込んでいた。

雨は上がっていてさっきまでの雨が嘘のようだった。

「大変だったね、、」
「うん」
凪ははじめて萌の顔を見つめた。

透き通るような肌にまだ幼さの残る綺麗な顔立ちをしていた。
長いまつ毛と美しい瞳が印象的だった。

「雨、、雨止んだよ」

萌は凪の方を見ずに言った。
しばらくの沈黙が流れたー

「帰るね、、」
「スウェットは洗って返すから」

「うん。いつでもいいよ」

「また、おいでね。約束だよ」
「うん。」

萌はこちらに背中を向けたままだった。
まだ少し濡れている髪の毛が凪の心を締めつけていた。

「萌ありがとう。行くね、、」

凪はスウェットとバスタオルの入った袋を持って玄関を出た。

水たまりの残るアスファルトの道には太陽の光が乱反射していた。

少し歩いてから凪は振り返った。
その右手には萌が持たせてくれたパステルカラーの傘が握られていた。

◇◇◇

 凪はおばあちゃんっ子だった。
幼い頃に両親が離婚して母は凪を祖母に預けて懸命に働いた。

母は疲労とストレスで時々、凪につらく当たることもあった。

そんな凪に祖母は限りない愛情を注いでくれた。

凪は高校を卒業すると母を支えるためにこの街にやって来た。人と上手く接することが出来ない凪は職を転々とした。
やっと得た仕事が郵便局の仕事だった。

「母さん、、母さん、、」
凪はうなされていた。

やがて凪はゆっくりと目覚めた。
ぼんやりと目を開けた凪の視界に昨日、萌に借りた傘が部屋の片隅に立てかけられていた。

昨日の萌の笑顔が浮かんでは消えていた。

凪は顔を洗って水を飲んだ。
窓の外を見ると今日も雨が降っていた。
凪は雨男だ。出かける時には必ずと言っていいほど雨が降る。

凪は萌に借りたスウェットをクリーニングに出すために街に出た。
萌に借りた傘を指して商店街に向かった。

凪の家から1キロほど歩くとその商店街はあった。日曜日の午後は商店街にも活気があった。買い物かごを抱えて皆、思い思いのものを買っていた。

凪は裏通りにはいって一軒のクリーニング店を訪れた。

「あの。これクリーニングお願いします」

「ああ。凪くんいらっしゃい」

店主は優しい笑顔で凪に語りかけた。

郵便配達をしていた時、凪は時々この店にも配達に来ていた。
物腰の穏やかな店主で葛西のおじさんは凪には優しかった。

「仕事はうまくいってるかい?」
スウェットを受け取りながらおじさんは凪に聞いた。

「辞めました、、」

「そうかい、、次の仕事は見つかったのかい?」

「いや、、」
凪は表情を曇らせた。

「落ち込まなくていいよ。まだ若いんだから、、」

「たまたま合わなかっただけだよ。そんなの序の口だよ。それで落ち込んでたらおじさんなんて、、」

言いかけておじさんは凪の顔を見た。
すると凪に優しく語りかけた。

「凪くん。おじいちゃん、おばあちゃんは好きかい?」

「はい、、」
すると笑顔で凪に一枚のチラシを差し出した。

「ここを訪ねてみるといいよ」
「アルバイトを募集してるみたいだから」

「まぁ、世の中なるようにしかならないからとりあえず何か行動することさ」
子どもを見るような優しい笑顔で凪に笑った。

「おじさん、ありがとう」
凪は笑みを見せてお辞儀をして店を出た。

◇◇◇

 凪はその足でチラシにあった住所を尋ねた。海沿いの小高い丘にその場所はあった。

緑の木々に包まれて茶色い小さな建物がひっそりと佇んでいた。

建物の前には木で出来た小さな看板が建てられていて「こもれび」と記されていた。

凪がゆっくりと近づくとひとりの老婆が庭の草花を見つめていた。

老婆は凪に気づくと手招きをして「こっちにおいで」という素振りをした。

老婆は朝顔を愛おしそうに眺めていた。
朝顔を見つめながら静かに凪に語りかけた。

「朝顔だよ。愛情の花さ」
凪はしばらくその花を見つめていた。
小さな雨粒に濡れた朝顔は薄紫の可憐な花をつけて咲いていた。老婆の周りをアゲハ蝶が静かに飛んでいた。


「あの、僕。ここで働かせてもらうために来ました、、」

老婆は思い腰を上げると手招きして凪を建物の中に招き入れた。

「由美さん、お客さんだよ」

老婆が呼ぶと奥からエプロンをつけた女性がパタパタとやってきた。

「凪くん?」
「はい。」

「商店街の葛西さんから聞いてるわ。まあ、上がって!」

凪は少しホッとして応接室らしき所に案内された。

「ちょっと待ってて!」

すぐに戻ってくると凪の前に冷たい麦茶を置いた。

「暑かったでしょ。飲んでね」

凪の前に座るとうちわでパタパタと仰ぎながら噴き出る汗を拭いていた。

「緊張しなくていいよ。立花 由美です。ここの責任者です」

「葛西さんからお話は聞いてるわ」
「どうして。このお仕事しようと思ったの?」

「それは、、」
凪は言葉に詰まった。

「ただやってみたくて、、」
由美は優しい笑顔を浮かべていた。

「おばあちゃんはいるの?」
「はい」

「おばあちゃんは好き?」
「はい。母の代わりに僕を育ててくれました、、」

「そう、、いいわ。明日から来てね」

「まずは皆さんと触れ合うことから始めてもらうわね」

凪は久しぶりの笑顔を見せた。
その姿を見て由美も笑顔を浮かべていた。


 翌日から凪は「こもれび」で働くことになった。掃除や洗濯に簡単な買い出しそれに雑用が凪の主な仕事だった。

とまどうこともあったが皆、優しい眼差しで凪を見守ってくれていた。

凪にとっておじいちゃん、おばあちゃんたちの話を聞くことは凪の心に徐々に変化をもたらしていった。

 ホームからの帰り道、凪は商店街に寄った。夕日が傾いて商店街の街並みを優しく照らしていた。

「いらっしゃい。凪。がんばってるって立花さんから聞いたよ」

「本当に良かったな、、」

「おじさん、ありがとう」

「いや、どうってことないさ」
凪にスウェットを渡して笑顔を見せると「がんばれよ」そう言って凪の肩をポンとたたいた。

凪は心の中に温かいものが広がっていた。
父親に会えない凪にとってそれは何より嬉しい言葉だった。


 凪は萌のおばあちゃんの家を尋ねた。ベルを押すと萌の祖母が出てきた。

「凪くんかい」
「はい。萌ちゃんに借りていたものを返しに来ました」

「そうかい、、あいにく萌は出かけてるよ」

「良いんです」

凪はそう言うと紙袋を萌の祖母に手渡した。

「それと、これ商店街で買ったコロッケとおはぎです。萌ちゃんと食べてください」

「わざわざすまないね、、」

「ありがとうございました」
「また来ますね、、」

凪は笑顔を見せるとお辞儀をして玄関の戸を静かに閉めた。空には虹がかかっていて凪は穏やかな気持ちになれた。

◇◇◇

 凪がその日「こもれび」に向かっていると海沿いの道を萌が自転車に乗って走ってきた。

「凪ーー!」
萌は凪に大きく手を振っていた。

「おはよう!」

「凪。コロッケありがとう。美味しかったよ。それと、おばあちゃんもおはぎ美味しそうに食べてた」

「凪は優しいね」

「そんなの良いよ、、」
凪は照れくさかった。

「凪。がんばってるみたいだね。良かった、、交差点で倒れていた時はすごく心配したけど、、」

「萌のおかげだよ、、」

「萌はこんな朝早くにどこ行くの?」
「学校だよ」
「私、看護学生なんだ、、」 
「将来。看護師になりたくて学校に通ってるんだ」

「だから、君を拾った時も本当は応急手当して救急車呼んだんだよ。言わなかったっけ?」

「言ってないよ。初耳だよ」

「でも、それって、、」

「心臓マッサージして人工呼吸してあげたよ」

凪は顔が赤くなった。

「ばか。何想像してるの。冗談だよ!」
「凪は私にとって弟みたいなものなんだから、、」

「歳も二つ下で弟と同じ歳だよ」
「入院手続きの時にこっそり見たんだ」
「だから、お姉ちゃんだと思っていいよ」
「嫌だよ、、」
凪は少しムッとしていた。

「まーた。可愛い顔しちゃって」

「それじゃ、私、行くね。学校に遅刻しちゃう。凪もがんばってね!」

萌は凪に手を振ると自転車に乗って海岸沿いの道を走っていった。

凪は萌の後ろ姿を見送ると海岸線を歩いて「こもれび」に向かった。

朝の空気は新鮮で太陽が上り始めていた。
海岸線から見る海はキラキラと眩い光を放って輝いていた。
凪はどこか幸せな気持ちに包まれていた。


それから凪と萌は時々会って話をするようになった。萌は看護師になって苦しんでいる人を助けたいと話していた。

いつからか凪は萌に心惹かれていた。
萌と出会ったことで凪は閉ざしていた心を徐々に開いていった。萌はいつも優しい眼差しで凪を見つめていた。凪にとって萌との短い夏は足早に過ぎていこうとしていた。

◇◇◇

 その日、凪が部屋でぼんやりテレビを見ていると萌からの電話が鳴った。

凪は電話に出た。

「もしもし、、」

「あ、凪。明日おばあちゃん家おいで。おばあちゃんが夕飯ごちろそうしてくれるって!」

萌の声は弾んでいた。

「悪いよ、、」

「ばーか。人の好意は素直に受け取るものだよ」

「ごめん、、」

「【ごめん】は禁止って言ったでしょ」

「明日の夕方6時におばあちゃん家で待ってるから、、」

「それとついでに卵買ってきて!」

「あとね、、」
萌の声のトーンが下がった。

「いや、何でもないよ。明日楽しみにしてるね」

「うん。分かったよ」
「それじゃ、おやすみ」
萌はそれだけ言うと電話を切った。

凪は嬉しかった。自分にもう一つの家族ができたような気持ちがしていた。凪にとって萌とおばあちゃんは自分にとっての居場所だった。テレビから流れてくる音だけが静かな部屋で響き渡っていた。


 次の日、凪は商店街で卵を買って萌の家に向かった。いつもの街並みが何だかとても懐かしく感じられた。

裏路地を通って萌の家のベルを鳴らした。
「凪。いらっしゃい」
萌が笑顔で出迎えてくれた。

「お邪魔します」

「卵買ってきてくれた?」
萌は凪に聞いた。

「買ってきたよ」
凪は買い物袋を萌に差し出した。

「ありがとう。上がって」
「ちょっと待ってて」

凪が居間に上がると食事が並んでいた。
「これ、飲んでて」
萌は麦茶をコップに注いで持ってきた。

居間の扉は開けられていて縁側から覗く庭が見えた。風鈴の音が微かに聞こえていて蚊取り線香の煙が静かに立ち昇っていた。
遠くで花火の音が聞こえていた。

凪は懐かしい風景を思い出していた。
母と祖母と暮らしていた頃の遠い昔の記憶が蘇ってきた。

「凪。出来たよ」
萌は目玉焼きを運んで来てくれた。

「おばあちゃんは?」
凪は萌に聞いた。

「二人で食べなさいって」
凪の前に朱色の綺麗なお箸が置かれた。

「食べよ」
「いただきまーす」

凪も手を合わせて萌が作ってくれた目玉焼きを頬張った。

「どうかな?」
「美味しい、、すごく、、」
「良かった」

萌は嬉しそうだった。
それからおばあちゃんの煮物やお味噌汁そして凪がついでに買ってきたコロッケを二人で食べた。

「美味しいね、、」
凪も萌も笑っていた。
縁側の向こうで夜空に舞い上がる花火が見えていたー

◇◇◇

 凪は帰り道、海に立ち寄った。

凪は寂しくなるといつもこの場所に来ていた。
夜になると誰もいないこの砂浜は凪のお気に入りの場所だった。凪はただぼんやりと目の前に広がる海を見つめていた。

「凪、、?」

後ろから凪を呼ぶ声が聞こえた。
後ろを振り返ると萌がビニール袋を持って驚いた顔をしていた。

「凪も来てたんだ、、」
「うん、、」

「萌、、」
「いろいろありがとう」

「そんなの良いって。それより凪。花火しない?」

萌は笑顔を見せると得意げにビニール袋を凪に見せた。

「線香花火だけど、、」

「線香花火好きだよ、、」

萌は凪の隣に座ると花火を出してそのうちの一本を凪に持たせた。

萌がマッチで火をつけると真っ暗な砂浜にパアッと明かりが灯った。

「凪もやってみて!」
凪は萌と同じようにマッチを擦り花火の先端に火をつけた。やがてぼうっと火が出て煙と光が凪と萌を包み込んだ。

花火の光で萌の横顔が微かに照らされていた。

「楽しいね、、」
萌は優しい笑顔を浮かべて明かりが消えていく花火を見つめていた。

「ねぇ。凪、、少しずつでいいよ」
「少しずつ前に進んでいってね、、」

「急にどうしたの?」
凪は萌の顔を見つめた。

「あのね、、私。東京に行くことになっちゃったんだ、、パパの転勤でこの街を離れることになったんだ、、」

「え?」

「もうすぐお別れだよ、、」

「どうして?」

「私も頑張るから凪もこの街でがんばってね、、」

やがて花火の光が消えて真っ暗な暗闇が二人を包み込んだー

「凪、、また会えるよね、、」
萌は凪の顔を見つめた。

「どうしても行かなきゃいけないの?」
凪は今にも泣き出しそうな顔で萌に聞いた。

「うん、、」

「また会えるよ。きっとまた会える、、」

萌は泣きながら笑っていた。

「凪、、私、凪のことちょっと好きだったんだよ、、」

「凪は私のこと好き、、?」

沈黙が二人を包み込んだー

「好きだよ。初めて会ったときからずっと、、」

萌は凪を見つめた。
やがて視線が絡まって二人は静かに目を閉じた、、微かにお互いの唇が触れていたー

暗い夜空には星が微かな光を放っていて
三日月だけが二人を見守っていた。

静かに打ち寄せる小波の音だけが聞こえていたー

◇◇◇

 あの日以来、萌からの連絡はなかった。

凪は夜空を見上げて星の輝きを見つめていた。流れ星が綺麗な弧を描いて大地へと降り注いでいた。風が涼しく風鈴を静かに鳴らしていた。

付けられたままのテレビを見ることもなく凪は夜空を見上げていた。

凪が電気を消して寝ようとした時、枕元の電話が鳴った。

凪は電話を取った。

「もしもし、、」
萌の声だった。

「凪。私、明日東京に行くね、、」

凪は黙っていた。

「もしもし、凪。聞いてる?」

「うん。聞いてるよ」

「見送りには来なくていいよ」

「そのかわり時々、おばあちゃんの家に行ってあげてね、、」

「うん、、」

「凪、、元気でね、、」
萌の声は涙ぐんでいた。

「たくさんの笑顔と思い出をありがとう、、凪のことずっと、忘れないよ、、」

「また、いつか会おうね、、約束だよ」

「萌ちゃん。ありがとう、、」

凪の声も涙ぐんでいた。

「元気で、、」

「萌ちゃんも元気で、、」

やがて萌からの通話が途切れた。
部屋の中を静寂が包んでいた。

凪は堪えていた涙が一気に溢れ出した。
誰もいない部屋で凪は声を殺して泣いた。

部屋の電気が微かに点滅して凪の啜り泣く声だけが聞こえていた。


萌の笑顔が浮かんでは消えていた。
萌との短い夏が終わりを告げていた。

窓の外では季節外れのアゲハ蝶が暗い夜空の中を静かに舞っていたー

◇◇◇

 あの夏から三年の月日が流れていた。
凪は「こもれび」の介護士になっていた。

春の風が気持ち良く空は鮮やかなブルーに包まれていた。

凪は萌に手紙を出すために郵便局を訪れていた。萌からの返事はなかったが凪はそれでも良かった。凪は半年に一度、萌に手紙を出し続けていた。

懐かしい郵便局のポストに手紙を出して帰ろうとしていた時だった。

「凪!」

凪を呼び止める声が聞こえた。

そこには郵便局でアルバイトをしていた時の先輩、戸塚が笑っていた。

「凪、久しぶりだな、、」

「戸塚さん、、」

戸塚は日焼けした顔で凪に眩しい笑顔を向けていた。

「凪、男の顔になったな、、」

「お久しぶりです。」
凪も笑顔を見せた。

「元気そうだな、、」
戸塚は優しい眼差しを凪に向けていた。

「凪。お前はあの時、頑張らなかった訳じゃない、、ただ人の優しさに触れられなかっただけだ、、」

「瞳の奥の優しさはあの頃と変わらない」
そう話す戸塚の目は優しさに満ちていた。

不意に戸塚は凪に右手を差し出した。
凪がその手を握ると戸塚は凪の手を強く握った。

「また、10年後に会おうな」

「はい。必ず、、」

戸塚は凪の手をゆっくりと離すと手を振りながら歩いていった。

「戸塚さん、、」
凪は3年前の記憶が鮮明に蘇っていた。


萌に出会ったあの夏の記憶が凪の脳裏に昨日のことのように思い出されていた。

もう一度振りかえるとあの日と変わらない景色が凪の目に映っていた。


帰り道、凪は萌とよく通った公園に来ていた。子どもたちが元気に遊んでいて公園を囲む桜の樹々は鮮やかな色に染まっていた。

桜の花びらが風に吹かれて静かに散っていた。凪は立ち止まって儚く散っていく桜を見つめていた。

「凪!」

「凪くん、、」

懐かしい声が聞こえた。

凪が振り返るとそこには萌が立っていた。
美しい女性になった萌はあの日と変わらない笑顔を見せていた。

「久しぶり、、」
その瞳にはうっすらと涙がにじんでいた。

「私、、東京に行ってからも時々、凪のこと思い出してたんだよ、、」

「いろいろ大変だったけどやっとこの街に帰ってこれた、、」

「凪は元気だった、、?」
凪の瞳からも涙がこぼれていた。

「凪、、私。凪が送ってくれる手紙ずっと読んでたんだよ、、」

「凪は優しいね、、」
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえていた。

「凪、、ただいま、、」

「また会えたね、、」

「萌、、萌ちゃん、、」

凪は萌に駆け寄り抱きしめた。

「おかえり、、萌、、」

散りゆく桜が二人を優しく包み込んでいた。
風に舞って桜の花びらが萌の髪に一つふわりと落ちた。

fin