「弥生ちゃん?」
「えっ」
きゅっと音を立てて、立ち止まってしまった。
その声で、私の名前を呼ぶ人は1人しかいない。だけど……まさか、それを"ここ”で聞くなんて。
……だって、私は理央くんと学校で話すことはほとんどないのに。
そういうルールや決め事があるわけじゃない、けれど。
声がしたほうへと振り返ると、やっぱり想像した通りの姿があった。
制服に、スポーツバッグを肩にかけている。
「……理央くん、どうしたの?」
「あ、えっと……」
理央くんは左右に視線を泳がせた後、私を見た。
「大丈夫かなって。なんか、いつもと違うような気がしたから」
「ありがとう、理央くん。……大丈夫だよ、またねっ」
私は返事を待たずに、早歩きでその場を去った。
―――――本当に、大丈夫なんだって……思っているはずなのに。
どうしてだろう。
理央くんにたった一言聞かれるだけで、胸の奥をそっと触れられたみたいな気がした。
私自身も気づいていない、なにかを。
それだけのことが、私の重い心臓をきゅっと締め付けた。
昇降口まで、生温かい風を切って歩いていく。
誰もいない静かな廊下に、足音だけが響いた。
――――中学最後の夏。
君と過ごした9年目。最後の夏が、ゆっくりと始まっていく。



