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→ついでのおまけです。






<font size="5">■雪融け、追憶■</font> 

 それから部屋に一人で居たところ、電話がかかってきた。そうか、家の電話があった。と思いつつ、ぼくは受話器を取る。
それには、下の方に、激しく投げつけたかのような擦れた傷が、また、新しく付いていた。最近多い気がする。


(やっぱり、あいつになにか、あったのか……)

でも、電話に罪はないだろうから、次から、投げるなら違うものにしてもらわないといけない。いや、投げつけるようなことをさせてはならないか。

電話の相手は、Mと名乗った。なんでアルファベットなんですかと聞いたら、
マゾと言われた。聞く気が一気に無くなる。まあ、それはともかく。

「……で、コウカさん。あいつに用なら、居ません。部屋にこもってます。入ってきたら殺されかねません」

『──あなたで、いいの。あの子、今回やけに時間をかけていたから、気になって、あなたに聞きたかったから』

コウカさんは、少し影のある声で言った。

「──ああ、日頃の睡眠不足と、糖分の取りすぎによる、反動の低血糖、そして栄養の使いすぎなんですよ。気を付けさせますよ」


適当に、答える。
彼女は、誤魔化されなかった。

『3つか4つくらいの掛け持ち、あの子になら、そんなに大したことないはずよね? 私、そのあたりが、気になったのだけど……私にさえよくわからない行動もあったし』

よく見ている人だった。
鋭い。少し、怖い。

『《片手で収まる程度》の仕事なのよ?』

「――あいつは複数のことが出来る代わりに、ひとつだけのことが苦手なんですよ、確か。一度、フルで働くと、次に来た内容があいつにとってはあまりに少なく、物足りないものだった場合、ラグがありすぎて、うまく考えられなくなるんです」


『……でも、あの子……まあいいわ。じゃあ、どうして、すぐにひとつめを『あの子のこと』を、説得や、なにかでもう少し短く済ませなかったと、思う? 私にお墓の場所だけ探させておいて。あなたの意見を、聞いておきたくて』


ぼくは、少し──考えた。 たぶん、それもまた自分を守るために、一人で作りあげてきた認識、大切な、存在そのものだからだと、思った。


 間違った答えが、救いになることもある。間違っている場所でなら、それは正しいことがある。

「――それは、生き方で、きっと、自我の、そのものだった、はずなんです。誰かが思うよりも、強く、それにしがみついてきたのだとしたら。それを――勝手な理由で、自分とは違う認識や理解で、いきなり否定して押し付けられたりなんかしたら」


 これもあれもそれも、きみの理解は全部間違っているから、早く捨てようね、もう大丈夫だからね、なんて、突然言われてしまったら。

 正義も、熱い言葉も、それを熱いと思えないほど凍えてしまっていれば、届かない。

温い冷たさから、徐々に、温度を理解出来るように。突き放して、だけど、少しずつ優しさに触れるように。


 もし間違ってるよ、だけ言われても、正解さえわからない世界に、認識が追い付かない世界に、放り出されるだけなのだ。

そんなのは──ただ痛くて、ひたすらに、怖いじゃないか。
救いであれ、救いにならない。拒絶したくもなるだろう。


 ずっと他とは《違う認識》で生きてきたというのが、どれだけの、重みを持つのかを、たぶん、ぼくらは、よく知っていた。


「もし、いきなり、正面から望まない形で説得なんてされたら――それこそ、追い込まれて、死にたくなります。ぼくなら、ですが」

理由を無理に引っ付けて、生きてきた。


──ぼくは。ぼくらは、きっとあの子と、似ていたのだろう。



「でもあの子は、既に自分で、なんとなくわかっていたと思いますし」


「そう、だから、不思議なの。いろいろと」

 足りなかったのは、きっと『実感』だったんだろう。理解や思考だけじゃ、補えない感覚。あいつに欠けていて、ぼくには足りないもの。
だって、どれも同じ。
みんな同じ。


「……あいつが何をしたかなんてのは、たぶん『ぼくに会わせた』んですよ。ぼくが、あの子を証明出来ないこと自体が、たぶん答えのひとつ、です。だいたいは覚えてますからね。事件だけなら、ぼくに関わらせずに終えたがりますよ。……まったく、勝手に期待しないで欲しいですよね」

『ふふ、あなたは、そう考えるのね』


どういう、意味だろう?


「……あとは自分の仕事を──他の、複数を、片付けて居たんでしょうね。とんだ合理主義です」

でも、と彼女は言った。
笑っている。


『あなたが、予想外に動く方が、難しかったんじゃないかしら?』

「……ええ、そうかも、しれません……」

だから、たぶん、別の任務を与えたのだろうか。あいつのやりたかったことが、いったいいくつあるのか。本当はまだ、あるのかもしれない。


「──ところで、まつりと親しいんですよね? 知りたいことがあるんですが……」

それだけ聞いて、彼女は、複雑そうに、答える。

「──あなたの、あの子に対する疑問。上から二つについては絶対に聞かない方が、良いわ。だから隠されてるのだもの。私の命がかかってるの」

「えー……」

あなたもか。だからなんで、そんなに、ぼくの疑問点がわかるんだよ!
なんにも言ってない、よな? 命をかけるようなネタなのか。聞きたい。が、やめておこう。

「──でも、自然に、素直に笑うように、なったわね、あの子。あなたのおかげかしら」


 コウカさんは、どこか優しそうに、慈しむように言った。

 はい、とは言えなかった。いいえ、も言わなかった。どうしようもなく切なくなった。怖い。きっとそれを認めたくないのは、ぼく自身だった。

──今の、この状態が、もう一度、壊れたら、ぼくは受け入れられるのだろうか。あいつがまた、壊れてしまったら、きっとぼくは……
笑っているのを見るたびに、幸せを願って、その反面で、怖がって、拒絶している。


『あの子は──』


 彼女は言う。だけど何を言われたのか、すぐにはわからなかった。視界がぼやけた。泣けなかった。痛い。喉が、ひりひりする。


「わかりました……」

ぼくは、それだけ答えた。

『──ところで、消毒液に酔う人間ってどう思う?』

彼女は突然、よくわからないことを言った。
どうってなんだ。

「──ぼくの周りでは、聞いたことは、ないですね」


『俊敏なキャンベルハムスターみたいな子よ』

俊敏なキャンベルハムスター。頭のなかで反復してみる。

「……あ、心当たりがありました」

なんというか、微妙な例えだった。

 それを聞いて、余程、リアクションに温度差があったのか彼女は吹き出した。ひいひい言って、笑っている。


「あ、最後に、あいつって──」

それに対して、彼女は言った。直接、あの子に聞きなさい、と。それは、明らかにたちの悪い、不可能宣言だった。だから、ぼくは諦めて聞く。


「ところであなたは、地下で迷子になった人を──」

既に電話が切られていた。

(……まあ、いいや)


 ぼくは、受話器を置いて、立ち上がる。あいつを、あいつだけでも、せめてぼくは、救えないのだろうかと、考えながら。


to be continued...