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 車が動いている。人を見ているよりは、酔わずに済むが、狭い場所に詰めるのは、どうも苦手だ。

(──といっても、車にしては、広い方なのか)


 頭に浮かんだ、ぼやけた人物像、その顔に、呆れた気分になってくる。あの、じじい……じゃ、なかった、おじさまは相変わらずだなあ。と思う。

(ああ、だからってどうしてこんなことをせねばならんのだ。自分でやれよ自分で。せめて、なんかごちそうくらいしてくれよ。やっぱりいい。そんなのいらないし疲れた、帰りたい。行く前からもう、すっごい帰りたい)


 頭のなかが、不満や疲れでいっぱいになる。他のことも同時に考えていたいというのに、このことが憂鬱すぎて、あまり進まない。なんとなく苛立つ。


 まつりには行く前から、だいたい予想がついたことがあった。やるからにはやることがあれど、乗り気ではない。家の前にあったその車が、見た目の品の無さ(おじさまに聞かれると怒られるだろうが、まつりは余計な部分の光沢が気に入らなかった)

──の割には、《知り合い》の所持する某メーカーの高級車であると知っていたし、そこにいる彼が、父親に気に入られるために、そのおじさまに遣われていることも知っていた。海外で何かあったらしい。海外がどの辺のことかまでは知らないが。


 その二つが目の前にあり、そこから連想する事柄もあり、かなりげんなりしているのだった。なんとなく、隣を眺めていると、夏々都がすごく挙動不審だったが、だいたい彼の状況に予想がついたので、触れないことにした。


兄が今、どうしているかなど、知らないはずだ。まつりもあえて話したことはない。

(この点については余計な情報を与えると、始末がかなり面倒な気がするんだよなあ……)


 そもそも、なんで移動なんかするんだと、不思議に思っているのかもしれなかったが、実はまつりにも、よくわからない。少女を見てみると、携帯電話でなにかしていた。そういえば、この車は《本物の》コウカが呼んだのだろうか。だとしたら、面倒なことになりそうで嫌だ。


 コウカは確かに、二人存在していたが、片方だけは違う場所にいる。もう片方は、《適任者》に入れ替わってもらった。
実際、そこまで強い繋がりがあったわけではないので、まあそんなには、問題にならないだろう。


 理由は、いろいろあったが、まず『目撃者』を消されないためだ。それから、目撃者であるということへの信憑性を、出来る限り無くすこと。こっちは出来るか少し微妙なところだ。それらは、身内に逆らっている行為だったが、今さらだ。都合の良いように使われるなら、こちらも利用してやろうと、思った。


 それは暗くてじめじめした、憎悪のような感情ではなく、ただ純粋で、無邪気な、いたずらを思い付いた子どものような、気持ちだ。

(これからどうしようかなあ。……やっぱり出来ることは出来るだけ、こなせたらいいよな)
  
 暇な移動中、ふかふかの座席に、爪を立てたくなりながら、ぼんやりと、たまに兄の相手をさせられている弟の声を聞いていた。

(──そういえば、覚えている限りでも、一度、行七夏々都の存在が、自分から消えかけたことがある)

確か、あれは彼が、学校の、修学旅行に行っていた間だ。

「県外とかに旅行に行くと、周囲の景色が頭で一気に更新されまくるから、吐く。死にそう」といつか、言っていた気もするが、わりとそれは冗談じゃなかったらしく、旅行中は、ほとんど目を回して、微熱状態だったらしい。

 それからも、帰って来るなり高熱で倒れたらしく、それからまたしばらく、遊びに来なかった。


 知らない人、になっていた彼は、旅行してきた、と言って、三週間くらいしてから、やってきた。まつりは、彼に誰かと聞いた。自分となにか関係があるのか、とも聞いた。それはまつりには結構切実なものだったのだが。

「あー、旅行してきたんだけど、旅行の内容が、あんまり思い出せなくてさ。体が正常じゃないと記憶、まともに働かないのかな。──悪い、お土産も渡せないわ」


──と、彼は、笑顔でまったく関係のないことを言ってきた。冗談だと思われたのかと思って、もう一度聞いた。

だけど、やはり、変わらなかった。


「正義の使者だ」

──とか、いきなり真顔で言ってきた。まともな発言とは、思えないが、とりあえず、返した。

「よし、帰れ。それが正義のためだ」


「なんでだよ!?」


 どうでもいいやりとりをしていたら、自分がさっきまで、悲しかったのか、よくわからなくなった。


 ──そんな出来事を、ふと思い出したのが、つい最近のことだ。まるで、他人事のように思ってしまう。そんなこともあったなと。そこにいたのが自分だったような気がしない。


 思い出すこともあれば、一方でなんとなく、なにかが、いくつか足りなくなっている気がしていた。そして《そのひとつ》は、実は『夏々都のこと』としてではなく、『彼の兄に関する出来事』と一緒に、分類されてしまっていることだと後にわかったのだが。


 そのとき彼と傷を結び付けているものが、よく思い出せないので、まつりには、夏々都が何かを恐れていたことも忘れてしまっていた。ただ、兄を警戒していたことくらいしか、わからない。自分だけでなく《人と人との繋がり》も、また『その人物としての情報』だ。


 忘れる面もあれば、そうでない面もある。なんて言ってしまうのは、少し切ないが、記憶は、思ったよりは曖昧で、思ったよりも複雑な構造なのかもしれない。

 でも結局、わからないことはわからないだけだし、それを言う気もなかった。この『欠陥』自体が、埋まる日が来るような気はしない。

(──っていうか、なんか、糖分減ってきたな……)



 あのお屋敷の、料理人、それからメイドの作る、お菓子は、美味しかった気がすると、ふと思って、嫌な気分になる。

(──しばらく、会ってないな)


 身内に伏せていることがいくらかあり、あまり会うわけにいかないのもあった。伏せているそのひとつが、行七夏々都と暮らしていることだ。

別に説明する義理もなかったし、あれこれと口を出されても面倒なので、していないのだが、あのお屋敷にいた者たち、生存者の中には、実は、今もまつりが戻って来ることを望んでいる者がいくらかいるらしく、そして、それに彼は邪魔らしい。


 現場にほとんど何も残らなかったせいで、関係者にしかわからないことだが、生存者はいるのだ。まつりは、そこに戻って来る気は全くないし、彼らがどう反省やらなにやらしたところで、完全に使われる気は、なかった。機嫌を損ねられすぎても困るので、ときどきは手伝う程度にしているが、それだけた。


 彼らが自分とは相容れないタイプの人間だと、もう随分前に理解してしまったから、もう戻れない。それに行七夏々都は、彼らの処分対象らしかった。その理由は、あまりに簡単で、逆に、嘘みたいなもの。

 『覚えすぎている』

 彼らは、証言などではなく、自分の力で行動を起こされてしまうことを、危惧している。


 最近、その意思が、どこか強まってきた。知り合いの話では、つい最近『この捜査に乗り出した物好きがいる』とかで、身内からの裏切り者として追われているが、見つからないらしい。行七夏々都は、その人物に会う前に、早めに処分されようとしている。
……なんて話が、どうして、冗談じゃないんだろうか? 

(あーあっ、やっぱり、いつまでも勝手な大人たちだよ。勝手に決めて、勝手に作って────それで、勝手に殺すってのか)


 まつりは逆らい続けるつもりだ。勝手な都合で道具にされるのは、たくさんだ。というのは建前だが──ただ、悲しくなるからだ。今さら、どうにもならないことだから。


 大切なものが、幼いときに、ほとんど奪われた。 子どもが拗ねているだけ、くらいに、向こうには思われているのかもしれない。だがあそこには、親らしい親も、大人らしい大人も、誰もいなかったのだと、まつりは思っている。『らしい』が何かという話をするとややこしくなりそうだが、要は、まつりは便利な道具か、愛玩動物でしかなかったのだ。彼らの目には『立場』や『権力』しか映っていなかった。



 そんな扱いの中で、拗ねていられるような、子どもらしい子どもなども、いるはずがなかったのに。今さら勝手に、そういうふりをされても、いい加減にしろと思うだけだ。


 これ以上、壊さないで欲しい。踏み入らないで欲しい。触れないで欲しい。どうか──奪わないで欲しい。