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「──あなたは、この人だけを愛せますか?」

自分自身を、そう指差して、その人は聞いてきた。
──ただの、例え話だ。
こういう状況があって、こうだとしたら、という遊び。


だから、ぼくは、答えた。答えにもならないことを。何の意味もないことを。

「できない。たった一人を愛するくらいなら、全部傷付けて、すべて嫌いになる方を選ぶよ」

 誰も、選ばない。誰かを好き嫌いで決めるのは、嫌い。それに、意味を見いだせない。それだけを答えれば、ただ突き放してしまう気がした。だから、回りくどくなってしまう。

いや、それも違う。本当は、短くて、うまく伝わる表現を、知らないだけ。

しばらく反応がないので、どうだ、かっこいいだろ、なんてとぼけてみた。
そしたら、その人は、言ったんだった。

「そっか、うん。きみは、面白いね」

バカにされたんだと思った。ちょっと、ムッとした。
その言葉は、ぼく自身に、誉める意味として使われたことがない。

「好きな考えかただ」

言い返そうとして、その人が発したその言葉に、理解が追い付かなくて、ぼくは、ぽかんと口をあけた。
佳ノ宮まつり。その人は、ぼくにとってのなんなのだろう。



──することがないとき、現実逃避したいとき。疲れたとき。

ぼくはいつも思い返す。
楽しかったこと。
愉快なこと。皮肉なほど忘れられないすべてを。
場面の雰囲気、景色の細部まで。髪の長さ。瞳。貼られたポスター。そこに書かれた標語。咲いていた花。舞台として、台本として、頭に刻まれているひとつひとつを。かけがえのない、宝物で、戒めで、呪い。
誰にも伝わらない枷。
証明さえできない痛みを。

「おーい、着いたってば」
「ん? あ、おう、いい天気だな」

「なに言ってるの。もう夕暮れだよ。きれーなオレンジだ」

まつりは、あの頃から変わらない。変わろうとすると、自らリセットする。

「そうだ、ケイガちゃんは、どうして?」

ふいに、どうして、とまつりが彼女に聞いていたのを思い出す。

『――どうして』

リビングのソファーに《猫を愛でるセレブの図》みたいに少女を抱えたまつりは、そう言っていた。

――おそらく、その問いの意味は。

『わかっている。だけど……』

ケイガちゃんの反応の理由は────

もしかして、まつりは、最初からすべてを見抜いていたのか。
では、どうして、彼女は、まつりにバレバレな嘘を付き続けている?
いや、それ以前に、なぜまつりは、わかった後もなお、彼女に合わせようとする?

何か、目的があるのか。
目的。ぼくは記憶をたどる。聞いた言葉は、鮮明に、一文字の狂いもなく頭に流れ込んでいる。別段、聴力がいいわけではないので、あくまで、あの部屋に、ぼくがいたからだ。

ケイガちゃんはこの辺りで苦い顔をしていた。

……そういえば、おそらくだが、ケイガちゃんには、コウカさんの脱走の話が伝わっていないようだ。

それにもし、双子だとすると、あの事件の日からもう、少なくとも、確か5年……くらいは経つはずなので、えっと……計算は果てしなく苦手だが、とりあえず、なんだか、ケイガちゃんの見た目といろいろ合わない気がする。

果たして、それは、なぜか。
ひとつ、確定は出来ないが、実はある仮定が浮かんでいる。

……そして、もしもそうだとして。

まつりは、彼女の嘘を、さらに嘘でフォローしていることになる。

「だーかーら、降りるよ、ナナト」

車から腕を引っ張られて、はっとする。まつりは、もうとっくに降りていた。
兄もいない。ケイガちゃんは──少し視線を落としてみると、まつりの背後にいた。その更に後ろは、大きな屋敷が見えていた。

通称、来賓館と呼ばれ、ときどき使われるそこは、まつりの屋敷の人の建てたもので、うちの父もそれに少し投資していた。

あれ? にしても、ケイガちゃんの家とかじゃないのか。まあ、入ればわかるのかな。

──ここは、来たことがある。
だけど、あまり来たくはなかった。

あまり、来たことがないけど大きなところだよね、と関心しているまつりに、ぼくは、苦笑いした。情けなくも、少し泣きそうだった。

白い壁。品の良い装飾。太い石の柱。大きな窓。向かい入れてくれる扉。
この場所をよく使用するのは、まつりの身内か、それか、ぼくの身内。
わかりきったことだったったのに、どうしてか、今知ったような感覚だ。

「──なあ、お前。ぼくのこと、今、どれくらい覚えてる?」

車から降りながら、変なタイミングで、聞くつもりもなかったことを聞いてみた。
いや、本当は最初から、心のどこかで、気になっていたのかもしれない。

まつりは、ふっと冷たく笑う。

「らしくないな」

そして、続けて、ごまかすような言い方をした。

「たとえ記憶がなくても、記録は残ってるさ」
来賓館に足を進める。

ここに来たのは、約三年ぶりだろうか。数字や時間に関しては、覚えが悪いのでよくわからない。

 建物の内装、構造、家具配置は覚えていたが、ここにくる道筋も、実はあまり覚えていなかった。だから、まさかここに来るとは思わなかった。


「兄が実験をするんじゃなかったのかな」

「さあ? っていうか、実験って?」

「それより、二人は、どこかな」

「どうして、話を反らす?」

ぼくは、黙って笑った。
その話は、一度、お前にしたことがあるんだ。

まだ、小さかったときだけど。

庭で、壁に当ててボール遊びをしていたまつりは、同じ庭で、その光景に怯え立ち立ち竦んでいたぼくに、手を止めて、近づいてきて、ポケットから出したサイコロを見せてくれた。
球体を綺麗に削って作ったような、ちょっと変なサイコロだった。少し、重みがあったと思う。

転がって、止まって、転がって、止まった。

『いきなり向かって来ないから、大丈夫。怖くないよ』

そう言われて、なんだか、安心出来て、ぼくは、それをそっと触った。
それで、初めて知り合った。

『どんなふうに怖い?』

どうして、と聞かなかった。それがまつりだった。
ぼくの好きなところだった。

 それから、何日かかけて、ぼくは話した。いろんなことを。まつりからも、いろんなことを聞いた。話をするだけでも、安心した。楽しいとか、楽しくないとかは思わなかった。ただ、不思議だった。思い出すと、なんだか、笑えてくる。

「お前が何度忘れたって、ぼくはずっと覚えている。おんなじ話を、そっくりそのまま、いつのことでも、何度でも、どんなときだって、一文字も違わず伝え続けるよ」


気付いてしまった。
まつりが付いている嘘の、いくらかの理由、それは、おそらく、ぼくにあったのだ。

そして、本人は、咄嗟だった。まつりの中の、ぼくの情報は、次第に不確かになっている。誇り高かったまつりは、きっとそれを、悟られるのを怖れていた。

そう、思えば、最初から。ぼくの記憶がはっきりあるときのまつりは、ぼくの目の前では、気を使っていた。それも、さも自然に。当然のように。

輪ゴムを使うところを見せたりもしなかったし、ハンガーを持っていたところを見られて、ぼくがびっくりしていても、平然とすることがなかった。
人の記憶をおそれるまつりは、他人の感情の機微に、人一倍敏感だった。

映画を観ていたとき、珍しく、まつりから声をかけてきたのも思い出す。ぼくはびっくりして、3秒ほど固まった後、まつりの方を見た。

『なんだよ、手洗いか』

『違う』

そう答えたときのまつりは真顔だった。
ただまっすぐにこちらを見ていた。

『何かあったのか』

その問いに、気のせいかもしれないが、確かに、まつりは、わずかながら、答えるのを躊躇していた。

まつりの記憶の中で薄れていたのは、ぼくの方じゃないか。

そして咄嗟に、彼女を利用して、悟られまいとしていた。きっと、ずっと、演技を通していた。
だから、あの辺りは無関係な情報が、含まれている。

──しかし、そうだとしても、それだけでは、すべてに理由がつかないが。
それは、ここに入ってから、わかるのだろう。


「……中に入ろう」

ぼくは言った。
まつりは背を向けて、顔を見せようとしなかった。
だからぼくも、特には触れたりせず、黙って扉を開いた。

頭上に降ったら死にそうな、派手なシャンデリアが、ぼくらを出迎えた。

 ……それにしても、やはり、なにかいろんな違和感をスルーしたような。