椅子こん!




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ベランダから陽射しが差し込んでいる。

寝ぼけながら目を覚ますと、相変わらずなにやら生物が目の前を横切っているので、二度寝したくなってしまうが、彼はしかたなしに寝室から身体を起こす。

「お弁当はエビフライにしてくださぁい」

朝から目の前の生物――、いやたぶん人物は言った。
しかし人物と、表して良いのかも正直なところわからない。
その人物は、少し前までは人魚だったらしいから。
とてとてと、子どものように乱暴でタドタドシイ歩き方で、部屋中を駆け巡る姿は、確かに陸になれていないようにも思うけれど、だからって、人魚。

「あなたは誰? どうしてこの家にすんでいるのかな?」
一応、これまで何回も質問したことを彼は改めて聞いておく。
「私のおうちをぶっ潰して建てられた人間のお住まいに、私が住んではならないのですか?」

たんたんと、無邪気な声が、返答をすることなく質問してくる。
毎度のことだ。
困ったな。
高校生になって独り暮らしを始めた彼がこの安アパートに引っ越してきて数日。
二階からごそごそ音がしたり、忙しくてほとんどシャワーで済ませるので、使っていないバスタブがやけに濡れていたり、不可解な現状でいつも悩まされていたのだが、まさか、やたらとそういうのに遭遇すると言う母上のように心霊現象ではないとは。

バスタブに浸かっていた、つやつやの、増えるわかめのような、個性的な髪質の彼女。

小柄で140センチくらいの慎重。
見えているのかわからない、曇ったガラスのような目は人間の色素とは違うのか、赤いような青いような、独特の輝きを放っている。
素朴さのある真ん丸の目丸い顔。歯は少しとがっているが、それくらい。
ある日、姿を見せてからというもの、彼の会話に噛み合わせる気もなく、エビフライがいいですを繰り返してついてくる。
「ねー、エビフライがいいです」
「はいはい」

朝から揚げ物なんか作る気力がない、と彼は考え、昨晩買っておいた惣菜コーナーからの逸品を冷蔵庫から出して差し出す。
その生き物は、不思議そうに眺めて 暖かくない、死んでます、と通告してきた。物騒である。

「おまえさ、もっと良いとこに行けよ? 俺なんか母子家庭で実家も正直貧しいし、バイトとかで今はどうにかギリギリ独り暮らしだぜ」

アルミホイルをしいた上にエビフライを二つのせて、トースターに入れながら言う。

ほやーんと不思議そうなリアクションをされた。
それから。
「湖が潰されたのでここから動けませーん」

地縛霊みたいな感じだろうか……

「そうなの? といってもな、俺は建設に関わってないからさ」
「ぼしかてーって、食べ物ですか?」
「両親の離婚や死別」

ぶわっと目に涙をためられた。リアクションが大きい生物だった。

「カワイソウな生き物です」
「そうかぁ? そう言ってくれんの、お前くらいだぜ。世間は冷たいからな」

 エビフライが焼き上がるとたんに、元人魚はしあわせそうに目を輝かせ、お皿にそれがのるのを眺めていた。
「本来は家を建てる前に、土地に挨拶すべき、なの、ですよ」
 むしゃむしゃと手づかみでエビフライを食べ始める。右手と左手両方にエビフライが握られていた。
いや……いいけどさ。
うまそうに食べるやつである。

「それなのに……ほんとに。人のおうちを、なんだと……むぐむぐ……すんでやったですね!」

 俺が生まれたときには建っていたこのアパートを建てた人の思想はよくわからないが……
確かにまぁ、その通りではあった。かといっても、俺に出来ることはとりあえずこうしてたまにエビフライを与えたりそのくらいである。今のところ害は無さそうだし、素直で無垢な目をしている。
 そもそもがたぶん人間ではなさそうなので、家賃も増えないだろうし、危害もないし、負担も自分のぶんくらいだから特に追い出す理由はない。
ただでさえ安いしな……

「えーと、それじゃ、学校行ってくるから」
 バスタブに水を張り、鞄を肩にかけてドアに向かう。
 そいつは、座ってエビフライをくわえたままこちらに緩く手を振っていた。
 特に触って危ないものはなかったよな?と出掛けてから思ったが、前の日にもいろいろ質問攻めにあっているし……人間生活に慣れてくるだろう。

「いや……」

 ちょっとざわつく気持ちに気付いて足を止める。
「きっと、そもそもが、大事な場所だったんだ……だから、本当に……」

 あいつには家族とか会いたいやつとか未練とかあるんだろうか。
今更俺が悩んでもどうしようもないが、それでもちょっとだけ罪悪感のようなものがあった。
いまはせめて、楽しく安心して幸せに過ごしてほしいものだ。

 なんとか遅刻しないように『学校』の門を潜る。
教室では44街のことが話題になっていた。

「もしも、将来強制恋愛条例が出来たらどうします?」
きちっと髪を整え、制服のボタンを上まできちっとつけた『眼鏡』が聞いて来て、俺は「適当に付き合えるワンチャン増えるだけなんじゃねーのか?」と返した。

 この頃はまだ、強制恋愛条例、なんて言われる条例はなかった。ただのおとぎ話だった。
何度も何度も決めるか否かで投票が行われ、白紙に戻って来た条例だ。
 けれど、44街にとっては『好きな相手がいる』ことを市民が互いに認識することにやたらと意義やら意味やらを見いだし、広く認知させ根強く計画を進めているので、いつかは強制恋愛条例が通ってしまうのでは、と俺も思っていたりする。
どんな理由があれば、人が相手を思うかどうかを強制出来るというのか?

 一説では人口の減少によるものだった。けれどそれは建前であり別の思惑があるのでは──と陰謀説を唱える人も居る。
特に、どちらが正しいとか有力だとかは俺には判らない。けれどそれでも得たいの知れない違和感のような何かは感じている。
 陰謀説のひとつが「隣国でキムの手が発見された為、国民を把握しやすくする処置らしい」
 というものだ。「キムの手」は強力な何かで出来て居て、この辺りに住むやつなら皆経験する思春期や青春──に起こり、悩ませられるスキダの発動。
それにより怪物的な概念体または異常行動も引き起こす。
その対処の過程で避けられない「告白」や「突き合い」をしかし問答無用で引き裂き突破するという都市伝説なのだ。

 そんなチートな武器が本当に存在するとすれば、市民どころか国民に成すすべがないわけで、恋が戦争として扱われる今の時代の常識が大きく揺らぐかもしれない。
今のところ俺にスキダは発動していないが、前の月に、ませた生意気な女子生徒とガキの権化のバカ男子生徒がバトルになり、そのとき男子生徒の「告白」によって、女子生徒の「スキダを消滅」させたのを見たときなどは大変だった。
 教室で共鳴したクラスターが発生したためだ。
しばらくは男子と女子という派閥に変わっての争いになっていた。
 スキダは闘争本能を呼び覚まし争いを起こしうる力なのだ。

「キムの手、かぁ」

 もし、万が一陰謀があるとしたら、その真相がキムの手の秘密を握っているのか。


 って、わけでHRのあと、眼鏡の席に行くなり俺は真っ先にその話をした。眼鏡はふむ、と相づちを打ち考察する。
「純粋なスキダを目立たせない為とか、そういう感じかのもしれませんね……」
「純粋なスキダ?」
「えぇ、自分も見たことが無いですけど、あるらしいんですね、普通のとは違うクリスタルが」