パスポート
昼。
「うーん……」
少しずつ曖昧秋に変わりつつある街。
写真に収めたいくらい透き通った青空。
朝ご飯を食べたあとはパスポートの書類を集めるために出かけた。
アサヒが頭を押さえながら唸っている横を歩く。
「写真も撮れたし! 椅子さんとの書類で本人確認もできたし! 割引適用だし! うふふふ!」
ホクホクという感じだ。
「なにそんなに唸っているの?」
女の子がアサヒに聞いた。
「いや……なんつーか……奇妙な夢を見たような……あれ? あれは、俺だよな……俺なのかなぁ……うーん」
「ふうん、そうなんだね」
女の子が曖昧な反応をする。この子結構精神的に大人だよね。
「おねえちゃん、嬉しそう」
アサヒに構うのをやめて、彼女は私を見上げた。
「まぁね」
私はくすっと笑いを零す。
椅子さんが、私を求めている。アサヒに嫉妬していた。椅子さんと婚前旅行。あぁ、椅子さん、可愛いなぁ。
そのためとはいえ、これからのあらゆる書類がずいぶん快適になった。私が、44街そのものに保証されたら、いろんなことが出来るようになる。素晴らしい。
まさか、せつが私に成り代わるためとかのために、? さらには田中さんや、学会の会長が手回しをしていて、
そんな基本的人権までなくなっていたとは、思いもつかなかった!
ラッキーだなぁ。
アサヒの、押し殺したような震えた声が、また脳裏に過る。
――当たり前の制度なんだよ、そんなのは……っ……
なんで、そんなにつらそうにするのだろう。私よりも、悲しそうにしていた。
外では、ラブレターテロのことが、あちこちで報道されている。
私も昔、ラブレターテロに合ったことがある。幸運だったのか、なんとか、追い回されても逃げきれたけれど、意識不明や怪我人も居た。
本当に、学会があのテロに関わっていたんだ、と他人事のような、どこか浮ついた感覚で報道を眺める。
誰かが病院に搬送された。私たちの頃と違って『青春』なんて片付けられ方をしていなければいいが。
「これから、みんなが当たり前に受け取れる幸せが、私にも、ふえていくのかな」
書類が、すんなり通ったことに、ものすごく驚かされた。
私が、私として、笑われることもなく、淡々と受付を通った。
夢みたいだ。
人を好きになることがそんなに、えらいのか、そう思うことが多かった。いつも邪魔をしてくるのは、誰かの嫌味のような好意だった。
そんなもの、どうでもよかったのに。きっと、本当は、当然の権利が欲しかった。私はそれさえ持っていないのに、見下したように、近づいてくる。それを『青春』なんて呼ぶ文化は、やっぱり良くない。
「そうだと、いいね」
女の子が私の手を握る。
「病院の外、なんだか、久しぶりでうれしい」
「……うん。外って、きらきらしてるよね、なんだか」
アサヒはさっきから、なにか考え込んだままだ。もしかしたら、昔のことを思い出したのかもしれない。
「あと、受領証と、手数料……か」
私は、言われたことを思い出しながら確認する。そういえば、申請すればすぐにってわけには行かないんだよね。一週間くらいして、また取りにいくみたい。すぐ出発だという勢いだったのになんか拍子抜けした。
しばらく無表情だったアサヒがふいに、こっちを見た。
「焦っても仕方がないだろ。ちなみに、かつてのラブレターテロ自体も、何日かにわたって行われたからな」
「えっ、そうなんだ。自分の居た近辺のことしか知らなかった」
「他の学校とか、数日遅れもあったんだ。さすがに、少数精鋭というか、同時多発とはいかなかったようだ。少しずつ取引の詳細が決まってくるだろう。田中以外のメンバー逮捕と、どちらが早いか……」
って、そうだ。そうだ。
なんか、すぐ出かける気がしていたけど、今考えてみると、パスポートがないと海外に行けないってことは、1週間待つってことじゃないか。
「もー! あんなに慌てて荷物纏めてたら、すぐ出かけるみたいに思っちゃうよ!!」
私の抗議にアサヒは至って真面目に答える。
「まぁまぁ。こういうのは早いうちに決めておく方が良いんだって。直前に荷物準備なんかしてると、大体忘れ物したりしても確認する時間がないんだ。旅行用のキャリーバッグとか、普段使わないから見慣れておいた方が心の準備も出来るしな。なにかあったときすぐに動ける」
「ぐぬぬぬ……」
まぁ別に、ちょっとびっくりしただけで、早めの準備にそんな不都合はないんだけれど。
すぐ横を歩いている椅子さんが、私の腰に触手を伸ばしてくる。
「ふふふ。椅子さん、楽しみだねぇ……」
「最近、気のせいか、たまに椅子の視線を感じるんだが」
アサヒが小声で何か言った。
「仲良くしてね」
とりあえず、私はそれだけ答えた。関係をどうしていくのが良いのかずっと考えたけれど、考えるだけじゃわからない。
今はただ、少しずつ手探りで始めてみようと思う。私の人権も始まったのだから。
「お昼ご飯、何食べる?」
女の子がはしゃいだ声で聞いてきて、そうだなぁ、と辺りを見渡す。
「じゃあ、うどんにしようかなー」
近くにうどんの暖簾が見えたので、そちらを指した。以前から賑わっているうどん屋さん。あまり買い出し以外で街に降りなかったし、入ったことは無いけど……
「ほら、あの女神ちゃん様人形可愛いし」
店の横には「美味しいよ!」というセリフとともに立っている女性のキャラクターの人形があった。いろんな女神さまが居るなぁ。
「そこかよ」
「…………」
本当は元気にしていないと、余計なことを想ってしまいそうになる。
私は、椅子さんのことが好きだった。
椅子さんの椅子さんなところが好きで――それは、魂と同じなのか、違うのか。
なんだか、わからなくなりそうになる。人の形をしてしまったら、それは、椅子と呼べないのではないか。
けど、椅子さんのことが好き。頭が、こんがらがる。
でも、椅子さんは、近頃、あんなふうに、まるで、人間の男の人みたいに……
(椅子さんは、人間になりたいの? 私の想いは、勝手で、間違っている?)
わからない。椅子さんが、どう思っているのか。
立ち止まる。
アサヒたちの楽しそうな声がそばをすり抜けていく。
(椅子さんが、もし、嫉妬で、それこそ、怪物になろうと、思ったら、私――また、大切なものを、亡くすのかもしれない)
声がして、顔を上げる。そこに居たのは、椅子さんだった。
「椅子さん……」
「ガタッ?」
「…………ううん。なんでもない。ときどき、夢を見るの。それだけ」
「ゴトッ」
椅子さんが私を気遣うことを言う。
――何か、悩んでいるの?
「……あの、ね、ときどき、椅子さんが、怪物になったら、どうしようって、今も……そんなわけ、ないのに……」
「ガタタッ」
椅子さんが、足を上げて、私に見せた。この前買った靴下を履いていた。
――私は、椅子だ。怖かったら、枷を付ければいい。
きみが履かせた靴下も、この身体で自力で脱ぐのはすごく大変だ。
「椅子さん……もしかして、靴下、脱げないから履いてたの?」
――いや、これは、暖かいから。そうじゃ、なくて
椅子さんは少し慌てた。
――そうじゃ、なくて。信じて、欲しい。
ぽつりと零された言葉が、心を溶かしていく。
「うん」
昼。
「うーん……」
少しずつ曖昧秋に変わりつつある街。
写真に収めたいくらい透き通った青空。
朝ご飯を食べたあとはパスポートの書類を集めるために出かけた。
アサヒが頭を押さえながら唸っている横を歩く。
「写真も撮れたし! 椅子さんとの書類で本人確認もできたし! 割引適用だし! うふふふ!」
ホクホクという感じだ。
「なにそんなに唸っているの?」
女の子がアサヒに聞いた。
「いや……なんつーか……奇妙な夢を見たような……あれ? あれは、俺だよな……俺なのかなぁ……うーん」
「ふうん、そうなんだね」
女の子が曖昧な反応をする。この子結構精神的に大人だよね。
「おねえちゃん、嬉しそう」
アサヒに構うのをやめて、彼女は私を見上げた。
「まぁね」
私はくすっと笑いを零す。
椅子さんが、私を求めている。アサヒに嫉妬していた。椅子さんと婚前旅行。あぁ、椅子さん、可愛いなぁ。
そのためとはいえ、これからのあらゆる書類がずいぶん快適になった。私が、44街そのものに保証されたら、いろんなことが出来るようになる。素晴らしい。
まさか、せつが私に成り代わるためとかのために、? さらには田中さんや、学会の会長が手回しをしていて、
そんな基本的人権までなくなっていたとは、思いもつかなかった!
ラッキーだなぁ。
アサヒの、押し殺したような震えた声が、また脳裏に過る。
――当たり前の制度なんだよ、そんなのは……っ……
なんで、そんなにつらそうにするのだろう。私よりも、悲しそうにしていた。
外では、ラブレターテロのことが、あちこちで報道されている。
私も昔、ラブレターテロに合ったことがある。幸運だったのか、なんとか、追い回されても逃げきれたけれど、意識不明や怪我人も居た。
本当に、学会があのテロに関わっていたんだ、と他人事のような、どこか浮ついた感覚で報道を眺める。
誰かが病院に搬送された。私たちの頃と違って『青春』なんて片付けられ方をしていなければいいが。
「これから、みんなが当たり前に受け取れる幸せが、私にも、ふえていくのかな」
書類が、すんなり通ったことに、ものすごく驚かされた。
私が、私として、笑われることもなく、淡々と受付を通った。
夢みたいだ。
人を好きになることがそんなに、えらいのか、そう思うことが多かった。いつも邪魔をしてくるのは、誰かの嫌味のような好意だった。
そんなもの、どうでもよかったのに。きっと、本当は、当然の権利が欲しかった。私はそれさえ持っていないのに、見下したように、近づいてくる。それを『青春』なんて呼ぶ文化は、やっぱり良くない。
「そうだと、いいね」
女の子が私の手を握る。
「病院の外、なんだか、久しぶりでうれしい」
「……うん。外って、きらきらしてるよね、なんだか」
アサヒはさっきから、なにか考え込んだままだ。もしかしたら、昔のことを思い出したのかもしれない。
「あと、受領証と、手数料……か」
私は、言われたことを思い出しながら確認する。そういえば、申請すればすぐにってわけには行かないんだよね。一週間くらいして、また取りにいくみたい。すぐ出発だという勢いだったのになんか拍子抜けした。
しばらく無表情だったアサヒがふいに、こっちを見た。
「焦っても仕方がないだろ。ちなみに、かつてのラブレターテロ自体も、何日かにわたって行われたからな」
「えっ、そうなんだ。自分の居た近辺のことしか知らなかった」
「他の学校とか、数日遅れもあったんだ。さすがに、少数精鋭というか、同時多発とはいかなかったようだ。少しずつ取引の詳細が決まってくるだろう。田中以外のメンバー逮捕と、どちらが早いか……」
って、そうだ。そうだ。
なんか、すぐ出かける気がしていたけど、今考えてみると、パスポートがないと海外に行けないってことは、1週間待つってことじゃないか。
「もー! あんなに慌てて荷物纏めてたら、すぐ出かけるみたいに思っちゃうよ!!」
私の抗議にアサヒは至って真面目に答える。
「まぁまぁ。こういうのは早いうちに決めておく方が良いんだって。直前に荷物準備なんかしてると、大体忘れ物したりしても確認する時間がないんだ。旅行用のキャリーバッグとか、普段使わないから見慣れておいた方が心の準備も出来るしな。なにかあったときすぐに動ける」
「ぐぬぬぬ……」
まぁ別に、ちょっとびっくりしただけで、早めの準備にそんな不都合はないんだけれど。
すぐ横を歩いている椅子さんが、私の腰に触手を伸ばしてくる。
「ふふふ。椅子さん、楽しみだねぇ……」
「最近、気のせいか、たまに椅子の視線を感じるんだが」
アサヒが小声で何か言った。
「仲良くしてね」
とりあえず、私はそれだけ答えた。関係をどうしていくのが良いのかずっと考えたけれど、考えるだけじゃわからない。
今はただ、少しずつ手探りで始めてみようと思う。私の人権も始まったのだから。
「お昼ご飯、何食べる?」
女の子がはしゃいだ声で聞いてきて、そうだなぁ、と辺りを見渡す。
「じゃあ、うどんにしようかなー」
近くにうどんの暖簾が見えたので、そちらを指した。以前から賑わっているうどん屋さん。あまり買い出し以外で街に降りなかったし、入ったことは無いけど……
「ほら、あの女神ちゃん様人形可愛いし」
店の横には「美味しいよ!」というセリフとともに立っている女性のキャラクターの人形があった。いろんな女神さまが居るなぁ。
「そこかよ」
「…………」
本当は元気にしていないと、余計なことを想ってしまいそうになる。
私は、椅子さんのことが好きだった。
椅子さんの椅子さんなところが好きで――それは、魂と同じなのか、違うのか。
なんだか、わからなくなりそうになる。人の形をしてしまったら、それは、椅子と呼べないのではないか。
けど、椅子さんのことが好き。頭が、こんがらがる。
でも、椅子さんは、近頃、あんなふうに、まるで、人間の男の人みたいに……
(椅子さんは、人間になりたいの? 私の想いは、勝手で、間違っている?)
わからない。椅子さんが、どう思っているのか。
立ち止まる。
アサヒたちの楽しそうな声がそばをすり抜けていく。
(椅子さんが、もし、嫉妬で、それこそ、怪物になろうと、思ったら、私――また、大切なものを、亡くすのかもしれない)
声がして、顔を上げる。そこに居たのは、椅子さんだった。
「椅子さん……」
「ガタッ?」
「…………ううん。なんでもない。ときどき、夢を見るの。それだけ」
「ゴトッ」
椅子さんが私を気遣うことを言う。
――何か、悩んでいるの?
「……あの、ね、ときどき、椅子さんが、怪物になったら、どうしようって、今も……そんなわけ、ないのに……」
「ガタタッ」
椅子さんが、足を上げて、私に見せた。この前買った靴下を履いていた。
――私は、椅子だ。怖かったら、枷を付ければいい。
きみが履かせた靴下も、この身体で自力で脱ぐのはすごく大変だ。
「椅子さん……もしかして、靴下、脱げないから履いてたの?」
――いや、これは、暖かいから。そうじゃ、なくて
椅子さんは少し慌てた。
――そうじゃ、なくて。信じて、欲しい。
ぽつりと零された言葉が、心を溶かしていく。
「うん」



