椅子こん!

あれからしばらくオージャンと話し合い、出国の日を想定して、とりあえず早いうちに準備をしておくことになった。
ただ、確保のために警察や探偵も動いているかもしれないので、その場合は引き渡されるのも考慮して、通常の旅行というプランだ。
むしろ、その方が捜査の目がある中で派手な動きが出来ず良いのかもしれない。
あからさまなクラスターが発生したときは、大々的に宣伝、迅速に行動できるように空港の人と話しておいてくれるらしい。
「でも、そんなことしたら、余計に目立たないかな?」
私が役場のことを思い出して聞いてみると、オージャンは大丈夫だと言った。
「普段から、こういう店などはマニュアルがあって、放送などで、それとなく案内するんですよ。普段の曲と変えたり、土産物販売についてアナウンスしたり、それ自体でやり取りするので客にも不自然に聞こえることはありません」
「そうなんだ」
 それなら安心だ。私たちまで変に目立ってしまったら、余計にトラブルに巻き込まれそうだし、手伝ってくれるオージャンも、嫌疑がかけられてしまうだろう。
 そうしたら、すべてハクナの責任にして尻尾切りをしようとしていたあの学会のこと。
好機とばかりに、私たちのあることないことでっち上げて、矛先を反らそうとするはずだ。そんなものの相手をしていたら、学会の取引に間に合わない。

女の子のママを見つけて、キムの身体を探すんだから。

「具体的にどうなるかは、後々お教えしますので。今考えても、盗聴の恐れがあります」
「っていうか、ニュースとかを見る限り、亡命の備えはされていると考えるべきだろうな」
アサヒがやけに真面目にそういうので私は少し驚いた。
 こういうのはそこまでして捕まりたくない、というものなんだろうか。どこに行ったって、罪は消えないのに。
でも、居心地はよくないだろうし、追われたら逃げてしまうのも仕方がないのかも。
「捜査情報は俺の管轄にはなかったけれど……ただ、かつて、警察内部に信者が潜り込んでいたことがあった。向こうが逆にスパイしてくることも考えられる」
「ふむ。確実な協力者ですか。でしたら、学会が関与したと思われる殺人事件のことと事情を絡めるのが良いかもしれませんね。まさかハイジャックはしないでしょうけれど」
 この日、夜になるまでずっと、逃走経路、当日の集合場所についてなどの計画の話
が続いた。




 その次の日は、カグヤやみずち、めぐめぐたちを呼んで買い物に付き合ってもらった。
お金を下ろしに行って、靴屋さんで暖かそうなブーツを選んで、洋服屋さんでコートと帽子を選んだ。
カグヤはおしゃれが好きらしく、あれこれと、私にこれはどうかと提案してくれて、それらを何度も身に着けた。
「どう、かな?」
カグヤたちが、似合うとか、良いねと言ってくれるのが嬉しいけれど、アサヒ(荷物持ち)はずっと黙っているので、試着の一つ、コートを身に着けながら一応聞いてみる。
「あぁ……」
アサヒはやっぱり、曖昧な返事だった。
「あったかくしていけよ」
それだけなのか、とか、カグヤにいじられていたけれど、私はやっぱり、カグヤのおじいさんを思い出してしまって、あまり気にならなかった。
「あったかくしていくよ。アサヒもね」
「俺は……平気だ」

女の子にも、暖かそうな可愛い帽子と、もふもふしたファーがついたコートを買った。
「これで、風邪引かないね!」
「うふふ、とっても可愛い」
それから。
「うん。似合ってる」
「ガタッ!」
 椅子さんにも、暖かそうな毛糸の靴下を買った。椅子用の靴下で、外れにくいように足首に巻くリボンが付いている。
お店の人は、なんだか不思議なものを見るような顔をしていたけれど、パートナー制度が広く適応されたのもあって、椅子さんとのことに深入りしてくることはなかった。
「椅子さん用の靴下もあるんだね」
みずちやめぐめぐが珍しがって、椅子さんを取り囲んでいた中で、椅子さんはどこか恥ずかしそうにもじもじしていた。
それを見ているとなんだか落ち着かなくて、背もたれを引き寄せるように抱き着く。
「椅子さん……」
椅子さんは触手を伸ばして、私の頬に優しく触れた。
――ガタッ。

 それだけだった。なのに、なんでか、胸がいっぱいになって、泣きたくなる。
まだ、北国に行って、帰ってこないと、なのに。
椅子さんとのことを認めて貰えるまで、いろんなことがあった。
悲しいことも沢山あったけれど、それでも、諦めなかったおかげで、対物性愛が、正式に恋愛として市民権を得た。
これが昔なら、病気だとか言われて狂人のようなレッテルを貼られていただろう。
でも、塗り替えた。

 許可証の申請が通るってこと、こうやって、のんきに外で買い物をしたりすること、自分たちのために大きなことを成し遂げようとしていること――どれも、夢みたいだ。
お金を大事に使わないといけないので、その後も試着で何度も出会いと別れを繰り返し、慎重に買い物を終えた。



「本当に、行くんだよね」荷物を担ぎながらの帰り道。
私はぽつりと呟いた。
これから、いろいろと荷物をまとめるべく自宅に向かう。

 今までずっと、家と近所を往復するだけだった。
何をするにも代理の人がいて、まるで離人症みたいに、他人を眺めているだけだった。
ずっと、そうやって、生きているのか死んでいるのかわからないまま時間が過ぎていって、どこにも行けないのだと思っていた。
けれど、私は、存在するんだ……
私が、私のために思考して、行動しても、誰にも怒られない。

「航空券の予約とか、荷物の整理、電圧も違うし、出かける前に何を食べるかとか、まだ考えることがあるぞ」
アサヒが唐突に現実を突き付けてくる。
「えぇー-めんどい」
「めんどいとかいうな。面倒なものなんだよ」
「うー……頭が、こんがらがってるよ。ずっと、見張られて、誰かが、代理をして、私は、どこにもいなくて、そうやって、続いていくんだと思ってたから」
「アサヒは旅行のプロだから、だいじょうぶだよ」
女の子が真面目な顔でそう言うので、私もそっか、と便乗した。
「アサヒは旅行のプロだったね」
「なぜ俺にプレッシャーを与えてくるっ」


 自宅への坂道に向かいながら、私は、椅子さんをぎゅっと抱きしめる。
 こうやって、外を歩きながら椅子さんを抱えていると、正直今も少し胸が痛んだ。
戦っているときはそれしか頭に無くて気にならなかったことを、一気に視界に入れてしまった。

 忘れたわけじゃない。結局、パートナーとして認める後押しになったとはいえ、全国放送されてまで椅子が好きな自分を笑い者として放映されたのだから。44街の人の目に、どんなふうに自分が見えていて、そして椅子と一緒に歩いている自分をどう思っているか、考えてしまうのが辛い。
 同性愛者にはアウティング、という言葉が認知されるようになったが、私のことに対しては、そんな認識はまるでないらしく、今になっても何も、謝罪も、その点に触れた言葉も聞くことがない。
 なのにまるで何もなかったかもように、ただ書類一枚で過ぎていくのが、どこか不気味で、虚しくて、変な感じだ。
服屋さんに行った時も、カフェに行った時も、何も、言われなかった。
何も……物が好きな人だって、たくさんいるはずなのに。

(こんなこと、思うのって変なのかな……)
椅子さんは、私を気遣うように見上げてくる。
椅子さんは不思議だ。目。はないはずなのに、視線を感じる、と思った。
「──だ、だいじょうぶ、だよ」


 しばらく歩いて家に着く。さっそく慣れた手つきで玄関の鍵を開けた。
少し、まだ、散らかっているけれど、それでも、私の家。
「ただいまー」
玄関に踏み込むと、緊張が一気にほぐれた。
入ってすぐの部屋にアサヒが置いている荷物や、私がまとめかけていた荷物を見つける。
無事に残っているだけでなんだかやけに安心してしまう。
アサヒは取材などで、なんか知らないけど、コートとかも持っているようだった。自宅から持ち寄った荷物を改めて確認していた。

 後で、これらを確認するとして……
私はまず夕飯の準備をしなくては。

その前に。そっと椅子さんを床に下ろし、私は部屋の天井近くの高さに備え付けられた神棚に向かうと祈る。

「無事に……行って、帰ってこられますように」