椅子こん!

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わたしは、ぼんやりと思い出していた。
それはうちに伝わるお話で、ママが小さい頃に読み聞かせてくれたものだ。


 ××××年のある医院ともないささやかな規模の診療施設の診察室に、ある女性の姿があった。その患者、薄い水色の髪の女性は今日で、何度目かの問いかけをする。

「あのぉ、経過は──どうでしょうか?」
彼女はある病気から具合がよくなく、ずっと勝手に体が暴れだしたり魘されたりに苦しんでいた。
 それは恋という難病──今で言う恋愛性ショックだったのだが、当時はみんな気の持ちようだと言って笑うのでなかなか病気として認められることすら珍しい。
 しかし彼女の知人に変り者の医者が居た。この話を聞いた知人の医者というのが、この話に興味を示し、やがて小さな製薬会社のツテで研究手伝いと治験を頼んだのだ。
何度も何度も治療と称してあらゆる薬の成分を試して数年の月日が流れたその日、彼女の体に良い変化が訪れていた。


「良好です。素晴らしい回復力ですよ」
 医者、と呼ばれる白衣の老男性はびっしりと患者の脳の写真の貼られたモニタからくるりと椅子を回転させて向き直る。そしていつになく目尻にしわを寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。

「本当ですか!」
彼女は、座っていた椅子から立ち上がり歓喜の声を上げる。
「ニギさんたちの──あのお薬のお陰です!」
「こちらこそ、協力をしていただいて、なんと感謝して良いか……」

治療がうまくいきそうだということから、薬に携わる医者と、彼女の被験者としての日々はまさに終わろうとしている。少しもの寂しくも、明るい毎日が待っている予感があったので互いに喜んだ。

「この研究がうまく運べば、世界中の病に苦しむ人間が救われるでしょうね」

「だとすれば、とても素晴らしい! 私も、こんなに健康的な気持ちは随分と久しぶりなのです。あぁ……なんだか、涙が……」


しかし、争い、マウントの取り合いというのは何処にでも存在するのである。

 難病を治す、それはときに偉大な功績として歴史に刻まれる重大なテーマだ。
製薬会社や、彼女の周り、医者にはどこから嗅ぎ付けたのか普段は表に出ないくせに、びっしりとマークしている組織があった。
 研究がうまくいくかには関わらず、病院のこと、研究のことというのを常日頃に盗聴する、いわばスパイ行為を常に行って居たのだ。
当時の44街のあちこちに存在していたその組織は、あらゆる会社に手を伸ばし、裏で操っていたと言われている。
現代でもひそかにクロと呼ばれているのもその残党だ。
隣国、カルト組織がその母体とも噂されるが詳しいことはわかっていない。

 薬は、彼女の健康状態をもってようやく成分がわかってきたという段階だったが、まだ様子見しなければならず、認可が降りる段階にいっていなかった。アレルギーなどが見つかる可能性、副作用を彼女以外からもよく検証しなくてはならない。

「うまく、いったようです!
」 
 そんな話はお構い無しに、木の上から医院を見守っていた一人が、双眼鏡から目を離して無線に呼び掛けると、「難病を治せる薬か──ふふふ。これがあれば、今よりもっと我が血筋が立派な病院を建てることが出来る」
と、ボス、は喜び、たちまち上空にヘリが飛んだ。
無線に答えた男が、証拠を撮影するために寄越したまだ若い観察屋が乗っている。

 研究や発明は戦いだ。
誰より早く、そしてしっかりと名を売ることで生き残る会社とそうでない会社が生まれていく。
 この段階からでもとにかく早く申請をしよう、先に特許をとったが勝ちと動き出した組織は、次の日には一人、医者めいた男を医院に尋ねさせた。

「こ・ん・に・ち・はー!」

「おや……? 今日の診察は終了したのですが」

時間外に来たその男は、明るくはつらつと挨拶するまだ若い男だった。がたいが良く、品の良いスーツを着込んでいる。
普段受付嬢が追い払うはずなのにな、と不思議に思いはしたが、受付嬢が1、2くらいしか居ない田舎の小さな施設のこと。のんびりとした場所柄だったので、こんなこともあるかと医者は彼にとりあった。

「いえいえェ~、わたくし、診察してもらいたいんじゃありませんよホォ! ただね、ちょっと小耳に挟んだんですけれどねェ~? あの、お嬢さんのお薬のこと……」

「はぁ、ええと? と言いますのは」

「あぁ、わたくし、こゆものなんですが……」

スーツの胸ポケットから名刺を出すと、男はある製薬会社の懇意にしている研究所の名前の名刺を見せた。

「お薬のことで、力になれたらと思って~、小林ちゃんとかからすごいすごーいっていう話を伺ってェ~それで、ウチからも支援させて欲しいなってことでして」

キャッ、と体をくねらせ、両手をぎゅっと握りながら乙女のような目で医者を見つめて頬笑む。

「はぁ……」
医者は勝手に話が漏れていることに驚き、呆れ、嘆いた。しかし、小林は口の軽い男だからな等と恨み言を思いながら、彼に向き直る。
「支援、というのは」

「特許申請を早めてあげるし、あと、口座に振り込ませて欲しいのホォ。うち、すごい気に入ってて~、他に取られるわけにはいかないじゃない?」

はい、これ、と
彼は手にしていた四角い鞄から今度はなにやら書類を取り出す。椅子に座っているままの医者のデスクにその紙を並べた。
「これは推薦書、これは支援の申請書。ここに、お名前と、口座番号、あと押印ね」

確かに、大企業の後押しがあれば宣伝効果も見込める。
販売するための研究となれば、費用だってばかにならないのだから、支援があるならそれに越したことはない。
 医者は少し悩んだが、小林も言うことだと思って、何より民のためを考えてみて書類にサインをし、印を押した。

「そのあと、だった……聞いたこともない会社が、治療薬を世に出した。けれど、ニギさんの名前は何処にもなかった……なにも、見つからなかった」

 ──某有名会社は、そうして生れて今日に至っている。けれどこれは、44街の民が知る必要はない。闇に葬られた、優しく悲しい物語。

「彼が、突然に病気を悪化させ死んだことだけが、明らかになった。医院は無くなり、どこに聞いても、誰に聞いても、真実はわからないまま。

 けれど、お前は、せめて覚えておいて──歴史に載るものが正しいとは限らないって、声を、上げられなかった人、声を上げようとした人が、本当はその裏に何人も居たんだということを」



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