すぅー、はぁー。
すぅー、はぁー。
坂を上り、白くてでかい要塞迷路のような建物が見えてくると、私の心はドキドキと暴れて落ち着かなくなった。
 深呼吸して、テスカトリポカ病院のドアを開ける。
テスカトリポカは火の発明者とか、人間のいけにえを求めたとか言われる大熊座の神の名らしい。
此処の人たちははいけにえ……なんだろうか。なんて冗談めかして考えてみたが、やはり真相はわからない方がいいかもしれない。
 とにかくこれから病室に訪れるのだ。
入り口でかけた携帯電話にしばらくして応答があった。
「はい──」
女の子の声。ちょっとの時間、離れていたはずなのになんだかやけに懐かしく感じられる。
「あ、あの、私! ノハナだよ」

「──おねえちゃん!」

女の子のはしゃいだ声。
元気そうで、良かった。

「なかなか、お見舞いいけなくてごめんね。大丈夫だった?」

「うん。少しめまいがしただけ。もう退院出来るって! あのね、テレビ見たよ! 家具と、人間が正式に恋人で申請が通るって!
それって椅子さんと」

「うん──うん。みんなのおかげだよ! 私、椅子さんと正式に恋人になったの! 単なる家具じゃなく、私のパートナーとして、物が、認められた」


物が、パートナーとして認められた、それは私が考えていた以上に44街に反響を呼んでいたらしい。
いままで対物性愛は恋愛としての地位を得て居なかった。
だけれどこれからは、制度としても街から保証される。役場から書類を突き返されて笑い者になることもない。
 自分が嬉しい以上に、私のような
性的嗜好の人たちが受け入れられることが嬉しい。
 44街は、冷たい部分もあるけれど、それでもあのとき、どこかにいるたくさんの誰かから、自分のことのように、声が上がったということが嬉しい。

「最近、火災とか、暗いニュースばっかりだったから、おねえちゃんが幸せになるの、すごくうれしい!」
「私も、あなたが、元気そうでうれしいよ」
たぶん、今しか言えないから私は言う。
「あなたが居なかったら、私、此処に戻って来られなかった。ありがとう……」
女の子はどこか弾むような声で答えた。
「ううん、私のほうこそ、あの日、おねえちゃんが居なかったら、瓦礫の下での垂れ死ぬか、拉致されていたと思う。
そっちの方がずっと怖かったから……怖くなかった」




「これで、安心して旅行が出来るな」
 私についてきてくれているアサヒが、腕を組ながら壁に寄りかかって呟いた。アサヒとの関係をどうしたら良いのかはまだよくわからなかった。 
 アサヒはやっぱりマカロニさんが好きなのだ。長い間復讐を目論むほどに、彼女を探していた。
彼のポケットには、今、マカロニさん《血のように真っ赤な宝石玉》が入っている。
北で取引されているという、それに、今、通話している子もなっていたかもしれない。胸が痛かった。
 誘拐した人たちは人間ですらなく、あんな風にコアとして出回っているのか。
誰かを満たすため、誰かの厄除けのために。

「まだ、人間一人から出来る量にしては、恐らく、少ないと思う」
アサヒは、ポケットから出した宝石をちらりと暮れてきた空に掲げながら呟く。
「恐らく、なにかを混合して量を増している。大量生産で出回ったものの一部だろう。それが、学会にも渡っていた……」

「そっか、じゃあ、まだ、残りが、北にも残っているかもしれないね」


身体が、ああやって、道具にされるって、どんな気持ちだろう。
どれだけの絶望だっただろう。

 私は、あの家にいたキムと、身体を見つけてくる約束をした。
本当に見つかるかはわからない。
だけど──あんな悲しい声を、聞きたくなかった。
少しでも、透明だけじゃない世界を見せたかった。


通話を終えて、病院に入るまえに、私はアサヒを呼んだ。

「ねぇ、アサヒ」
外は暗く、すっかり夜になってきている。
「なんだ?」
「あの家にいたキムの身体、たぶん見つかる確率はすごく低いと思う。ずいぶん昔だし、どこの誰だったかももうわからないから……」
「あぁ」
「だけれど、私は、あのキムにも笑ってほしい、嘘をつきたくなかった」
風が吹く。冷たい。寒い。もう、秋になる。入り口近くで、車椅子のおじいさんと、それを押すおばあさんとすれ違う。寄生虫がー、とかなんとかって、話題をしている。

「体がないってね、奪われたのって、惨めで、痛くて、辛いのよ。私は、わかるの……誰かが触れるたびに、痛くて、悲しくて、だけれど、姿がないから、それも伝えられない。
だから余計に苦しくて、悲しくて、ああなってしまった」

「だけど、どうするんだよ、身体がないって自覚したら、また、暴れてしまう」

「うん。だから……身体を作る。
探して、探して、探しても見つからなかったら、私が身体を作るから……」
誰かが、抱きしめてくれる身体を。
透明じゃない、ここに居るよって、みんなから愛されるような身体を。
奪われたりしない。

「だから、手伝ってくれる?」

アサヒは少し首を傾げたが、すぐに頷いた。
「わかった」
「うふふ。アサヒには、頼みごとばっかりだね」
「なんで、そんなに嬉しそうなんだよ。自分のことじゃないのに」

「私のことだよ」

アサヒが怪訝そうにする。


「──私が、やりたいことだもの」
宝石になっていたら宝石を。
たとえどんな形でも、お友達になろう。
お人形さん。椅子さん。みんなで暮らそう。 あなたを認めよう。 
みんな、ここに居るよ。
あなたも。

「って、具体的に何をするんだよ」

「素体探し、かな」




 階段を上り、廊下のあちこちにある矢印を辿って指定された病室を目指す。ドアをノックすると、椅子に腰かけたまま眠そうにするカグヤと、めぐめぐ、みずちが来ていた。
「あ、こんばんは!」
小声で挨拶しながら中に入る。
女の子が、中心にあるベッドからはにかんで言う。
「いらっしゃい」
「無事で、良かった……!」
こちらに向かって伸ばされた両手のなかに、飛び込んだ。



「検査結果が良かったら、明日か明後日には出られそうだって!」
という話を聞きながら、私は持ってきたプリンを女の子に渡す。ちょっと早いが退院祝いだ。
 先に来ていためぐめぐたちとは、田中市長が、いろいろあって会長に協力するのをやめるらしい話をした。接触禁止令を阻止できたのだ。
めぐめぐが小さく歓声をあげる。
「それと、公認、おめでとう!」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
みずちが、カグヤが言い、私は微笑んだ。
「ありがとう」




 北国はすっごく寒いらしい。
カグヤの家に向かいながら、私たちはそんな話をして帰りを歩いた。
今から椅子さんの治療をしてくれることになったが、すっかり夜中だ。
この夜より、寒いのかと考えながら、夜風に震えた。

「コートとか、滑らないような靴、帽子、用意してある?」
「え、う、うーん……あったかな、寒さがわからないから、想像つきにくいな」
ちょっと不安になる。アサヒや女の子のも、どこかで揃えなくては。

「俺は取材のときに買ったのがあるから大丈夫だ
ぞ」
アサヒがしれっと呟く。
おぉー、とカグヤと私は手を叩く。
「すごいアサヒ」
「さすがアサヒ」
アサヒがやめろよ恥ずかしいだろと唇を尖らせる。後日暖かいグッズを買いにいくと決め、私たちは夜道を歩く。わいわいとはしゃぐ私たち。
坂をくだりながら、私は「でも、こんな遅くに上がってっていいの?」
とあらためて聞いてみる。

 カグヤがふと「おばあちゃんが居ない夜の家は、やっぱりちょっと、寂しいからさ」とこぼした。
あの夜、夕飯をごちそうになったことを、柔らかな笑顔を思い出す。
宗教のパンフレットを部屋で見たこと、信者以外を置かないと嫌な顔になったこと。
いまだに信じられないけれど、カグヤの祖母は亡くなった。
胸の奥が、妙にざわざわする。
家に着くころには、あたりは真っ暗だった。引き戸を開けたカグヤが、先に靴を脱ぎ、「入って」と促す。
玄関には私の両手が収まりそうな大きな男物の靴があった。
「お父さん、帰っていたんだ」
特に動じる様子もなく、彼女はそう言い、玄関の先、部屋の明かりをつける。そしてさっさと工房のドアに向かっていくので、私たちも後に続いた。
「ただいまー」
カグヤの祖父が、「お帰り」と、やや元気がない声で出迎える。
「ばあさんがなくなったから、何かしていないと、落ち着かなくて」
「あのっ」
私は震える声をどうにか絞り出す。
「お忙しい中、お邪魔しています」
手には、バラバラにされた恋人を抱えている。この姿をみるだけでも、泣きそうだった。
けれど悲しいのは私だけではない。傷心しているおじいさんに作業をさせようとしているのも申し訳ない。
「おぉ……こんな遅くて、お父さんお母さんは心配しないか?」
おじいさんは、予想よりもずっと穏やかに微笑んで言った。
「それは、大丈夫です」
私は、もともと孤独だ。アサヒもそうなのか、俺も、とつぶやく。
そんな感じで私たちは平気なんだけど、やっぱり、迷惑では……
おろおろしていると、カグヤが、おじいちゃん! と言った。

「椅子さんを、直せないかな……おばあちゃんのことが大変なのは、私も手伝うから。お願い、時間がないの」

 私も口を挟んで頭を下げる。
「お願いします、椅子さんは、私の大事な人なんです。せっかく、以前直してもらったのに、こんなに壊してしまって、なんですけど」
おじいさんは、やや驚いて目を丸くしていたが、質問をした。
「なんだかよく壊れる人だね、何か、事情があるのかな」
「あ、あの……椅子さんは」
「この前、まだなおしかけだったのに、急に無くなって、カグヤが持って行ったのかと思っていた」
カグヤが苦笑する。
椅子さんが飛んで出て行ったことをおじいさんは知らなかったはずだ。
「貸しなさい」
おじいさんは無表情になって言った。私は椅子さんを手渡す。
「カグヤの頼みでもある。できる限りのことをしよう」

「ありがとうございます! あの今更なんですけど、修理代って……」

私ははっとして聞いてみるが、おじいさんは何も答えず、さっさと奥に向かっていった。







「椅子さんと結婚したら、苗字は椅子になるの?」

 その日の夜はカグヤの部屋に行った。
 ローテーブルを囲んで座るなりカグヤがいきなりガールズトーク?を始めて、私もそれに付き合う。
アサヒはどこか眠そうにしている。さっきから、一言もしゃべっていないが、疲れているのだろうから、ゆっくりやすませてあげたい。
「えーっ、どう、だろう……椅子は名前ってわけじゃないからなぁ」
過去にはエッフェル塔さんと結婚して苗字をエッフェルに変えた人もいたようだけれど、椅子さんは、固有の名前ではない。
だったら、木の名前? それとも。椅子さんにも名前があるのだろうか。
胸がドキドキしてきて落ち着かない。
「とりあえず、私の名前を使う、かな」
 ちらりと、横にいるアサヒのほうを見る。体育座りのまま目を閉じてうつむいている。
アサヒ、やっぱり眠そう。布団を敷いたほうがいいのかもしれない、とカグヤに言おうとして、カグヤがなぜかニヤニヤしていた。
ので、どうかしたのかと聞いてみる。
「ふーん。いや、なんでもないんだけど」
「なにか、嬉しいことがあった?」
「まぁね。あたし、リア充って基本嫌いなんだよ。クズ親父が自分の価値観で、わがまま放題して、数多くの家庭が壊れて、いろんな人を不幸にした。だから、恋愛って嫌いなの、私がもし万が一誰かと付き合っても、きっと親父と重ねてしまって、許せないと思う」
「うん……そうだよね」
カグヤの気持ちは私にも理解できた。
 誰かが傷つけあう道具でしかなくて、いっぱい不幸を作り出した元凶が、カグヤにとってお父さんの恋心だった。
二度とそんな気持ちがなくなってしまえば、全人類から感情がなくなれば、もしかしたら、みんな幸せになれるのかもしれない。
カグヤはただ、二度と辛い思いをしたくない、それだけなのだろう。

「でも、あなたたちを見ていると、システムや慣習としてではない恋もあるんだって。そう、信じられそうな気がする」



――昔の44街は、恋愛をしないと処刑されそうな町だった。
今よりも更にひどい差別や迫害に満ちていた、
 だけど、市長も考えを改めた。会長は、わからないけれど、ハクナも時期に本格的に監査が入る……
無理に何かと付き合う必要はもうどこにもなくなりつつある。それを伝えようとして、口をつぐんだ。
 本当は、みんなただ、誰かが押し付けた形じゃなく、自分の形を探しているだけなのかもしれない。
「もし、そうだったら、誰かと付き合ったりするの?」
「うーん、わからないなぁ。小さいころからの気持ちは、そう簡単にはなくならないから」


カグヤは少しいたずらっぽい笑みを浮かべて耳打ちする。
「それよりそれより、これはノハナさん、波乱の幕開けかな?」
「え、なんの話?」
「クズ親父の話をしたばかりなのに、これじゃ困るなぁ。友人として、何か忠告すべきかしら」
「だから、何を言っているの?」
カグヤにどんな良いことがあったのかは知らないが、なぜ私が出てくるのだろう。
思わずアサヒのほうを振り向くが、アサヒは眠っていた。なんだかあどけない表情に和んでしまう。
「……おやすみ」