椅子こん!





家具は物だ。
──多くの人間にとって、意思が通じ合えるのは生き物だけ。
 物、と結ばれることは出来ないと、多くの人が考えている。
あるいは、虐待や迫害のトラウマから精神的な解放を願っての症状、とまるで対物性愛だけを病気のように
描くことがある。
──信じられないことだが、これが今の世界の現実。
意思疏通が出来ないと、パートナーとして認められないだけじゃなく、『それだけ』を理由を虐待やなにかにかこつけて病気にしてしまう学者も居るような、偏見の世界。

 アサヒに悟られないように気を付
けたけれど、ドアノブにかけた手を離すとき、恐怖でいっぱいになっていた。本当は動きたくなかった。

みんな、憐れみ、奇妙なものを見るような目で笑ってた。
 今では44街の民全体が私を見下ろし、クスクス笑って居るような気がする。
あんなに意気込んだのに、街の中心部に向かうに連れ、恐ろしさにこの場に踞りたくなる。
  ああ、本当にどうして、今度は平気だと思ってしまったんだろう。
届けだって、何だって、いつも私のものだけ受理されなかったのに。
いつもと変わらないんだ。
いつも、周りと私の世界は違う。
誰の目にも映らないし、
居ても、居なくても、変わらない。

──恋は仕方がないんでしょう?
だったら、なぜ、笑ったりできるの?


坂道を下っていく。
 火の手があちこちで上がっているのが見渡せる。どこかで誰かが叫んでいる。誰かが死ぬ。救急車が走ってる。でもなぜだか、なにも、感じることが出来ない。
なにも、考えたくない。
スライムを助けられなかった。
コリゴリも、死んでしまった。
(私が、全て殺した。)

『続いて──役場に……クスクス……椅子! 椅子さん……クフッ……との写真を持って書類を提出しに来てくれたかたが居ました──ふふ……!』
会場が笑い声に包まれる。
──ああ、また思い出した。
目が回る。足が震える。
はやく、はやく行かないと行けないのに、景色が歪んでいる。
足が止まる。動けない。
じっとしていると、ヘリが飛んでいくのがわかる。
 また、誰かが家を壊される。
どうだっていいや。


弱くて、悲しくて、惨めな気分だ。


 今も誰かが死んで、誰かが怪我をする。それなのに私は、自分のことばかり考えている。
──役場に行ったときも、私はどこか楽観的で、アサヒもついてきてくれていた。
だからこんなに心細くなかった。
きっと何もかも、いつか忘れていくと思ってた。今更あんな風に笑われたくらいでそれが44街に流れたくらいでなんでまた、こんなに戸惑うのか。きっとそれはそれだけじゃ足りないくらいに私は外に憧れて居たのかもしれない。だから、44街の視線が気になるんだ。


 代理じゃなく、私自身の力で、私を生きたかった。

 その代償がこの44街の火災?
可哀想に。
私、街と同じことをした。
みんなを殺してる。
だから、なに?
私は、悪魔って、呼ばれてきた。
だって、私、

──こういうの、いかにも悪魔らしくて、いいじゃないか。

本当は、生れたときから、こうやって、全部、壊したかったんでしょう?
だって、私、ずっと……


 俯いたまま、街の声を聞いていたとき、誰かが強く手を引いた。

「前を向け!!」
 アサヒと目が合う。
改めて見るとなんだかわからないが、腕を怪我しているし、少し疲れているようだった。
アサヒにも色々あったんだろう。

「アサヒ……わ、たし」

「諦めないって、決めたんだろ?
だったら、ちゃんと、

お前の信じる椅子を信じろ!」

 力強い言葉が、心に溶けていく。
前を歩くアサヒが、珍しく頼もしく見えた。

「うん!!」

 そうだ、何を迷っていたんだろう。私が何者だったとしても、私は、私。
 椅子さんを好きになるのは誰かに決められたわけじゃない、私が選んだ本当の気持ち。
 今まで通り椅子さんを信じる自分のことを一方的に信じて、笑う声は信じなくていいんだ。
身体が軽くなった気がする。

「アサヒ、市庁舎まで、結構あるけど、どうする!?」

 もしかしたら市長や44街民は私のこんな姿勢に驚くかもしれない。援助も受けてないし、友達でもない。

「車、無いし……走るしかないだろ」
アサヒが少し嬉しそうに答える。
引かれている腕がなんだか熱かった。


道の途中──どこかのビルのモニターはここぞとばかりに大声を上げている。
『今、学会と関係ない方への監視を中止するように、幹部直々に命令がくだりました!』

 ふしぎな騒がしさの中、バスを見つけて乗り込もうとしたけれど、やっぱり避難する人で満員だった。
「パフォーマンスが始まってるな」
アサヒが苦笑いする。
今日はよく学会の会長自ら画面に映っているらしい。
「上役からすべて責任擦り付けされ、キチガイ扱いを受け闇に葬られそうになって、とうとう『謝罪の気持ちはありました!わたくし正気です!』ってか。それにしては何年も放置し、手が込み過ぎてるけどな」
 もはや、こんな騒ぎになってしまっては今度は逃げずにやってますよ-! とアピールをするのにも遅すぎた。クビになるしかないだろう。

 信者たちがどう受けとるかは知らないが、きっと少しずつ学会も変わって行く。


「お嬢ちゃんたち!」
後ろから声がして、振り向く。
 知らない男の人の軽トラックがクラクションを鳴らしてこちらに合図してくる。やけに馴れ馴れしい。
「あ──あの……」
咄嗟にアサヒの背後に隠れる。
覚悟はしてみたけど、やっぱり恥ずかしい。アサヒはきょとんとしたまま、何か用ですかと聞いた。
「いや、ほら、俺だよ、ほら、カグヤのデモの手伝いしてただろ」
「──ああ、あのときの」

 隠れていてよく聞いていないけど、きっと笑われる……変態が居るとかって、注目されてしまった。もう44街で生きていけないかもしれない、あんな風に、呼ばれるなんて思っていなかった。
「お、おい……」
アサヒがちょっと驚きながら私を見る。
「大丈夫だって、ほら、カグヤの協力者だ」
 大丈夫? なにが、だって、あんな風に発表されたら──
椅子さんのことを、信じるって、決めたけど、やっぱり出来るなら誰とも顔を合わせたくない。そういう目で気を遣われたくないし、本当はそういう目立ちかたをしたくなかった。大丈夫とか、大丈夫じゃないとかじゃなくて、だけど──
「あまり話したりしなかったからな、覚えてないか……おーい、怖くないよー」
「…………」
心臓が暴れる。
怖い。胸が、痛い。
逃げ出したい。
 どうして、なんで、椅子が好きなだけで、こんな目に合わされるのよ。私はただ与えられた中で自由に生きたいだけなのに……
怖い? 何が? 自分自身が?
それとも、この気持ちが?
わかってる、怖くないのが、怖い。
 家具を好きになるのも、誰かに認めて欲しいと思ったのも初めてなんだよ。なのに……

 アサヒは数秒困ったように私を見ていた。男の人はお構い無しに、私に近付いて来ると何故か拍手をした。
「──おめでとう! 本当に良かった!」
え?
笑われるでも貶されるでもなく、
祝われてしまった。


「俺もさすがにあの報道はやりすぎだって、審議会に送ってやろうと思ってたんだ。あのスピーチ、感動しちゃったよ椅子さんと幸せにな、届けは出せたか? なんか拒否に非難が来たんで新たに届けを受け入れるって話だぞ」
「──……?」
予想外の言葉に拍子抜けする。

「ほら、のったのった! 市庁舎まで行くんだろ」

彼が促すままに、私たちは荷台に乗り込む。
「お、お願い、します!」

荷台に乗り込むのは本当はいけないんだけど今は緊急時につき特別だ。
 車が走り出す。
やったな、とアサヒが横で嬉しそうにしていた。