椅子こん!

椅子



──ガタッ……!

音が聞こえたような気がして私はハッとする。
「今、椅子さんが!」
アサヒはそんな私を不思議そうに見ていた。荒れた部屋もそのままに、靴をはいて外に向かう。

「行かなくちゃ……椅子さんが呼んでる」

私は、椅子さんが好き。ずっと──
たとえ、44街が、人間同士の恋愛しか認めて居ないとしても。
 たとえ、家具を恋愛対象としてみることを皆の前で笑い者にされたとしても。
スライムが、認めなくても。
44街の人が詰めかけてまで反対して、あげつらって、暴行に発展しても。
 人間を選ばなきゃいけないなんて、そんな風に思わなかった。
 それでも側に居てくれる椅子。

椅子のことが、そんな人間より輝いて見える。ずっと、椅子さんは変わらない。
椅子さんが、椅子さんで良かった。


「諦めるなって、言ってくれて、ありがとう」

心がじんわりと温かくなる。
 私に唯一残されていた、私が私である証拠。他の誰でもなく私は椅子のことを愛していた。
「私……嬉しかった」
だから──胸が痛いのは、気のせい。
声が震えそうだ。
私は、幸せなんだから。
今だって、笑わなくちゃ。

 人間が信用出来ないなかで、姿形すべてが家具そのものであるという絶対的な安心感。人肌とは違う感触。
私を包み込んだ触手。柔らかな声。
どれも忘れることなど出来ない。
今だって、どんな人間より、椅子さんのことを考えている。



外に出る。
 坂道の下に、広がる44街。
街のあちこちに火の手が上がっている。

「なに、これ……」

「たぶん、ハクナだ」
アサヒが端的に答える。
「どうして、こんな」

「お前の迫害が、44街に広まりつつある。陽動作戦だろうな。かつてのあの宗教団体お得意のテロだ。なにかあるたびに似たような事件を外部で起こす」

「あちこちの家に火をつけて、騒ぎの矛先を逸らそうとしてるってこと?」

信じられない。私が外に出たいくらいで、どうしてそこまでして周りを巻き込むのだろう。
「酷いよ……どうして」

「だが、44街はお前を見下し、食い物にしてきたんだぞ。価値なんかまるでないみたいに、全ての行動をせつに奪わせていた。
それを、見殺しにしてきた民だ」

アサヒは淡々と言う。役場で笑い者になる私を見ている。44街では私が生きること、私が死ぬことは対して尊重されていない。
 この命の価値も44街民にとってはただ快適に生きることの為でしかない。


「うん。だけど──」

 黙ったまま、アサヒが端末を取り出し、なにか検索したものをこちらに向ける。
動画だった。画面には、44街の恋人届担当職員、そして44街の恋愛推進委員会とかいうなぞの委員会の人たち数名がテーブルを囲む姿が映し出されている。


『 緊急事態宣言です。
今後、恋人届けを出していない者は理由を問わずに発表していきます。
異常性癖や嗜好があっても、
44街の担当審査員によって、社会的影響が出ることが認められるほどのハードさである、と認めなければ
公表していきます! 強制恋愛条例ですので、恋人届けが3ヶ月以内に出されない場合はこちらから強制的に相手を指定させてもらいます!』

『続いて──役場に……クスクス……椅子! 椅子さん……クフッ……との写真を持って書類を提出しに来てくれたかたが居ました──ふふ……!』
会場が笑い声に包まれる。


 驚きで、声が出せなかった。世界が停止してしまったかのように、私は画面に釘付けになる。そこから先の話は何も、頭に入って来ない。

「────!」

これが、街中に流れた。


 アサヒは、なんで今、こんなものを見せたのだろう。
「これは、全国に、放送された」
44街はお前が生きていることそのものを認めていない、と私に知らしめさせて、
 そうだ。椅子さんの件はもともと人格権を認めていないうちの、その1つ、恒例行事としての否定に過ぎないのが実情なんだと、
私は居なくていい子だったと、
それがたまたま外に出ようとしたから邪魔したに過ぎない、そんなきっかけでしかないと、思い知らせて──

 今、火事にあっているのは、その44街の人。意識していなくても、その恩恵にあずかってきた。因果応報。


ううん。そうじゃない。
私は、悪魔だから。
 44街の人間がどうとか、そんなこと、どうだっていい。死にたければ死ねばいい。
ただ──

「私はね──椅子さんがいる世界を守りたいの。空気の悪いところに居たら椅子さんが可哀想でしょう? 
44街の人間のせいで、椅子さんが苦しまなくちゃならないなんてあってはならないもの」

いつもの道を──今までほとんど出歩かなかったその道を歩く。
 壮大で豪快な、そして残酷な花火のように、遠くの家々が燃え上がっている。
まるで、終末みたいだ。

「俺はさ──マカロニを、救えなかった」

後ろをついてくるアサヒがふいに呟く。

「マカロニは、病気だったんだ。
恋愛性のショックで、情報判断が狂っちまう。軽度だったけど、よく薬を飲むのを見かけたよ」

アサヒは、少し、寂しそうだ。
私は黙ったまま聞いていた。

「俺は──臆病で、それならそれで、マカロニはずっと俺のところに居てくれるんだと、思っていた……病気のことがあっても、マカロニの明るさや優しさは変わらなかったから──いつか、いや、ずっと、あのときのまま、一緒に居られると」

空を漂うスキダが、断末魔の叫びを上げている。おぞましい。

「──でも、ある日、結婚したんだ」

「え?」
私は驚いた。

「俺にも意味がわからなかった。つい昨日まで同じ学校の学部の学生で──
少し、良い仲だった。
それが、突然、恋愛性ショックもあるのに。もちろんこれ自体は誘拐とは言わない。だが、マカロニの様子は変なんだ。
学校にいてもなにか、魂が抜け落ちたみたいな、無表情になってて───

 俺は手がかりを探した。

相手は、人類恋愛の総合化を目指す学会の人だということがわかった。
その頃はまだ、学会は少しはまともな会だった。今みたいなよくわからないカルトでは、少なくともなかった、はずだ──」

「うん……それで?」

「とにかく、それからの彼女は無表情になっただけじゃなかった。
恋愛性ショックがなくなっていたんだ。
まるで、感情そのものを排除したみたいになって、病気がすっかり良くなってて……

──ある日、学校の帰り道で一人になったところで彼女は誘拐された。

 俺も、他の友達にもわからなかった。
彼女の家族も何も知らないようだった。
その旦那も何もわからないらしい。
余程錯乱していたのか、俺のところに事情を聞きに来たが何も言えなかった。
 誘拐とわかったのは、道にある監視カメラの映像から、何者かの黒塗りの車に連れ込まれる映像が残されていたからだ」

爆発音がする。
地面が、空気が、震えている。
ここは本当に44街なのだろうか、と私は考える。早く、椅子さんに会いたい。
それにしても──アサヒは突然、なぜ、マカロニさんの話を?

「それから俺は、途方にくれながら過ごしたんだが……そのうちふと、目にする番組が捜査ものが増えていることや、誘拐のテーマが増えていることに気が付いたんだ。
それに、部屋にある雑誌の広告、新聞のチラシ。
なぜかわからないが、なんだか嫌な感じがした。

──もしやと思って、昔の本や、その辺のチラシを引っ張り出すと、
『愉快で便利な暮らしを提案!』
というリフォームメーカーのものや、
『手に入れた純金、どうしますか?』という質屋関係のチラシ、『声をかけると、ワーワー声を出す楽しいおもちゃだよ』というおもちゃの広告まで、全部、まるで、あいつのことを前から示していて知っていたみたいだった。

俺は会社をメモして全て探した。
それらは皆、学会の関係の会社だった」

「────」

「被害妄想かもしれない、なんだっていい、なにか、探してないと、なにか、してないとおかしくなりそうで怖かった。
ああやって少しずつチラシを集めて、誘拐の準備をしてたんだと思うと、怒りより先に、俺が救えなかったことが苦しくなった。

──俺は、学会の関係者が誘拐を斡旋していると仮定することにした。


「でも、それ、観察屋の、仕事でしょ?」

「あぁ。情報がほしくて、学会に近付く為、学会と、外交を気にして制度を悪用し見殺しにした44街に復讐するために入ったんだ。
ただ、観察屋は、監視がメインと思っていたから……当時、写真の使われ方がああいう広告にもなってることは知らなかった。あれは違うやつが流用している……
お前の件には俺も、加担したってことになる。酷いことをして信じてくれるかわからないが」

「信じる」

マカロニさんの手がかりが無くて、しばらく本当に、洗脳というか仕事をするだけになってしまっていたということもあるらしい。
「こっちこそ、ありがとうな。
お前や、あの子を見ていると、44街に見殺しにされた彼女と、重ねてしまう……」

「しんみりしてる場合じゃないよ。これから、探しに行くんだから」

「あぁ……」

 前を向いているから、アサヒがどんな表情をしているのかはわからない。
あの動画も、彼なりの考えがあったのだろう。だけどもう時間がない。

「…………」

 他のことを考えると、すぐ迷ってしまうからやめて、せめて椅子さんは今どうしてるかなと改めて考えて、道を走った。