「さっきはごめん」

 背中に掛けられたその声に、胸がドキッと飛び跳ねる。

「え?」

 背の高い、テニスコートの防球フェンス越しに見えたのは、一学年上で陸上部の先輩……、花宮先輩だった。
 本当は苗字だけじゃなくて、先輩の名前も知りたい。けれど先輩にはもちろん、誰にも訊くことが出来なくて、未だにわからないまま。

 そんな臆病な私の返事を待つ、先輩と目が合ってしまい、頭が真っ白になる。
 けれど早く、何か言わなきゃ。先輩はごめんって私に、わざわざ伝えに、こうして会いに来てくれたのだから。
 でも気持ちは逸るばかりで、言葉が形になる前に、次から次へと私から離れていく。言葉を選ぼうにも上手く考えられない。

 せめてをと思い、私は言葉にならない想いを詰め込みながら、首を横に振った。それから視線を外すことで、なんとか平静を保とうとした。

「今日、うちの学校で練習試合だったんだね」
「はっ、はい……」

 返事をした瞬間、柔らかく微笑む先輩を、真正面から見てしまう。耳が、普段は存在すら忘れているくせに、熱を纏って主張する。

 嘘みたい。先輩と……喋ってる。喋っちゃってるよ、私。しかも喋り掛けられたんだよ、私。

 空まで届きそうなくらい、先輩への想いが溢れてきた。なのに胸の奥がキュッと縮こまって、羽ばたく気持ちとはあべこべになる。どんなに頑張っても、先輩の前では平静なんてものは皆無なんだと思った。
 見透かされそうなほど、高鳴り続ける鼓動を隠くすため、私は慌ててテニスラケットを抱えた。

「今日は特に大変だったんじゃない? それでも居残り練習をしているなんて……本当に君は、いつも一生懸命なんだね」

 先輩が、ふわっと微笑む。短めの前髪の下で、眉毛が緩やかに動いた。

「君はさ。部活中に俺が、いつもここのテニスコート横を走ってるのって、知ってたりするのかな?」
「へ? は、はいっ。知ってますっ」

 裏返った。声、裏返っちゃった。
 も~ぉぉ。穴があったら隠れた――……う、ううんっ。ダメダメ。そんなのもったいないっ。
 私は勇気を振り絞って、たった今、俯かせたばかりの顔を上げてみた。

「そっか……! そうなんだ。ああでも俺たちバタバタ煩いし、気付かない方が不思議か」

 だけど入れ替わるように、先輩が顔を地面に向けて、会話が止まる。
 ど、どうしたんだろ。何か話さなくっちゃ。
 そう一人で焦っていると、先輩は不意に顔を上げた。

「俺たちは明日なんだ。練習試合じゃなくて、大会だけどね」
「は、はぁ……」

 無邪気に声を弾ませたかと思えば、優しく目を細める先輩に色っぽさを感じて、私は頷くのがやっとだった。

「えっと、それでさ……」

 先輩は口籠ると、落ち着かない様子で首の後ろを掻く。
 私は全然全然、余裕がないくせに、その仕草を可愛いと感じた。
 するとまた。胸の奥がキュッとなる。
 苦しいような心地いいような、そんな繊細で不安定な痛みにちょっかいを出されつつ、私は黙って先輩が話し始めるのを待った。なんとか私が卒倒する前に、先輩は口を開く。意を決したように、先輩は短く息を吐いた。

「突然で驚くかもしれないけどっ、君のこと、ずっと前から気になってたんだ」

 ……へ?

「テニス部って結構人数いるし、一生懸命な子なんてさ、幾らでもたくさんいると思う。なのに俺には、君だけが特別に見えるんだ」
「花宮、先輩……?」

 先輩は少し早口になりながら言った。

「春に偶然君を知ったんだ。テニス部は今日みたいに練習試合をしてた」
「れ……練習試合ですか?」
「うん」
「あ……」

 きっとそれは、私が入部して間もなく行われた、他校との合同練習のことだろう。

「それで俺は、その日もインターバルをしていてさ。ゆっくり流すタイミングの時に、ちょうどここ」

 先輩はそう言って朗らかに笑った。耳を赤く染めて、太陽の光を浴びた水面のように、瞳をきらきら輝かす。

「ここで男子の試合を応援する君を見かけたんだ。周りの子は結構派手に騒いでいたけど、君は……なんか真剣でさ。両手をこういう感じに握って、祈るようにコートを見つめてた」

 高校からテニス部に所属した私は、諦めたわけではないのだけれど、今年二年生に進級した後もレギュラーに選出される見込みは、きっとない。特に先輩が話す、入部したての春の時なんかは、まだ右も左もわからなくて、気が緩めなくて、とても必死だった。
 だから、真剣に応援するなんて当たり前のことで――

「ルールはよくわかんないけど、スマッシュ? えっと、取り敢えずうちの学校のやつ……と言っても、俺のクラスの高木っていうやつなんだけどね。その高木が決めて、ゲームが決まった感じになった」

 それは女子の合同練習が終わり、みんなで男子の応援をすることになった最後のゲームのことだろう。
 長引く高木先輩の、シングルスの試合を見させてもらったのだ。
 普段は時間を決めて、男女代わりばんこでコートを使うのだけれど、他校が来てくれる日などは、コートを分けて一緒に練習をする。だから女子の私も、あの日は男子の応援をすることが出来たのだ。

 そして私が先輩の苗字を知っているのは、男子テニス部の二年。高木先輩のお陰だ。直接訊いたわけではなくて、高木先輩が呼び止めたのを聞いて、たまたま。
 今のようにフェンス越しにお喋りをしている二人を、私はよく見かけていたのだ。

 実は好きになったきっかけも、それだったりする。

 楽しそうに会話を交わす声に惹かれて、思わず二人に顔を向けたのが最初だった。
 ふわっと笑った先輩の表情を見て、恋のはーとを撃ち抜かれたらしい。私は一瞬で恋に落ちた。
 桜の花びらが舞う中、私は一人動揺して、拾い集めていたテニスボールをうっかり落してしまったのだ。それほど私にとって、先輩はきらめいて見えた。

「そしたらさ、君。それまで息を呑んで応援していたのに、突然ぱぁぁとさ」

 先輩は、はにかみながら話す。楽しそうにしてくれるのは、とてもとても嬉しいのだけれど、どんどん脈が速くなってとても困った。

「両手をこう広げてジャンプして、めちゃめちゃ喜び始めて、笑って……。それがすごく……可愛かった」
「――へ、ええ⁉」

 変な声を出して赤面した私を、先輩は笑う。

「その日から、ずっと君を目で追ってた。本当は君が目当てなのに、高木と話するふりして、こっそり見たりもした……って、俺。すっごい恥ずいこと言ってんな」

 私は大きく首を横に振った。嬉しい気持ちを伝えなきゃ。でも恥ずかしさのあまり、目を開けていられない。

「うわ。ちょっと何それ。すっごくやばい。まだ話しの途中なのに……」

 その言葉に、私はハッとした。何か失礼なことをしてしまったのではと思ったからだ。

「可愛すぎ……」

 けれど目を開けてみれば、顔を真っ赤にする先輩がいた。

「えっ? えっ?」と挙動不審になる私を見て、先輩はぷっと息を噴出した。
 先輩がする、笑いながら片目を瞑る仕草が、まるでウインクをしているかのようで、また私の心臓をドキドキさせた。

「ああごめん、笑っちゃって。嫌な気にさせてないかな?」
「い、いいえそんなっ、全然……!」

 遠慮気味に首を振った後、私は火照った頬を手で扇いだ。こんなことをしても意味がないとは思うのだけれど、そうでもしないと間が持たない。いや、何をどうこう間を持たせるのかは、全く説明が出来ないのだけれど。

 先輩は咳払いをし、そうやって私が乱した呼吸を整えると、真剣な顔つきになった。その表情は、練習中に見せる、あの精悍さを想起させた。
 けれど耳は赤く、でも逸らすことなく熱心に伝えようとしてくれる瞳に、私は不思議さを見る。

「さっきは試合中にごめん。つい力になればと思って、咄嗟に大きい声を出しちゃったんだ。つまり、なんでそんなことをしたのかって言うと――」

 先輩はフェンスを掴むと、真っ直ぐ私を見据えて言った。

「君が好きだ。もし、俺にチャンスをくれるなら、明日の大会を観て、これからも好きでいていいかを決めてほしいっ」

 嘘……先輩が私を……?

「駄目、かな?」
「だだ、駄目なんてそんな……」

 心拍数がどんどん上がっていく。
 だけれど目の前で、先輩が少し不安そうに上目遣いになっている。だからこのままじゃいけないと思った。
 恋とは不思議である。こんな引っ込み思案な私が、

「は、花宮先輩っ」
「はっ、はい!」

 こんなにも勇気を出したがってる。

「私……。私も先輩がっ、花宮先輩が好きですっ」

 胸に抱えたラケットを取り払って、私は人生初めての告白をした。

「さっきはごめんなんて、そんなことありませんっ……。だって私、花宮先輩がくれた一言で、折れかかった気持ちをまた、上向きに出来たんですから。ゲームは落としちゃったけど、でも。最後まで勝つために戦えたんです」

 私は知ってる。先輩がとても努力をしていることを。
 先輩があれだけ直向きに頑張っていても、結果が付いていかなかった時期があったことも知っている。

「私、花宮先輩の頑張ってる姿、ずっと見てきました……。さ、最初は笑顔が素敵だなぁって、完全に一目惚れだったんですけど、けれど、それだけじゃなくて」

 先輩がくれた応援が、どんな意味を持つか。

「驕らないで熱心に励む姿勢とか、みんなのために尽くしたりする優しさとか、諦めないで走り続けている強さとか。そういうかっこいいところを、ずっと見てきたので……すごく嬉しかったんです、私」

 先輩の存在が、今日までの私をどれだけ励ましたか。

「だから、さっきはありがとうございますっ。花宮先輩、大好きです……!」
「~~っ。もう、フェンス邪魔!」

 先輩はそう叫ぶと、テニスコート場まで飛んできて私を抱きしめる。
 腕の中は温かくて、安心と、ときめきで満ち溢れていた。

fin.