私は趣味で音楽を小さい頃からやっていた。
中学生になる前、中高生とかがはいっているオーケストラのグループみたいなもの
にその理事長と父親が知り合いだったため
他のメンバーよりかは少し小さかったからなのか始めのころは可愛がられていた。
でも流石アメリカというべきか、だんだん差別?みたいなものが、いじめ的なもの
になり、エスカレートしていった。
また、わたしには作曲の才能的なものがあった。
それもあり、ヴァイオリンが出来たので、最年少ではメンバーにはいることができ
ていた。
差別も、いじめも我慢できたし、それは普段通っているスクールでもあったことだ
ったから特に気にならなかった。
でも、一番許せないことがあった。
それは最年長のお兄様、お姉様方に曲を奪われることだった。
生意気とか、アジア人とか言われどんどん自分の曲が奪われていく。
先生も見ない、知らない、フリをしていた。
私の曲なのに、あたかも先生たちは自分の手柄のように振る舞ってそれが私を怒り
狂わせた。
そして私は曲を描かなくなった。
今まで自分の手柄としてやってきたのに、急に曲ができないのをだんだん上の
上層部の人が疑いはじめ、また、私に矛先が向く。
それの繰り返しで私はオーケストラに行かなくなった。
中学生になる前、中高生とかがはいっているオーケストラのグループみたいなもの
にその理事長と父親が知り合いだったため
他のメンバーよりかは少し小さかったからなのか始めのころは可愛がられていた。
でも流石アメリカというべきか、だんだん差別?みたいなものが、いじめ的なもの
になり、エスカレートしていった。
また、わたしには作曲の才能的なものがあった。
それもあり、ヴァイオリンが出来たので、最年少ではメンバーにはいることができ
ていた。
差別も、いじめも我慢できたし、それは普段通っているスクールでもあったことだ
ったから特に気にならなかった。
でも、一番許せないことがあった。
それは最年長のお兄様、お姉様方に曲を奪われることだった。
生意気とか、アジア人とか言われどんどん自分の曲が奪われていく。
先生も見ない、知らない、フリをしていた。
私の曲なのに、あたかも先生たちは自分の手柄のように振る舞ってそれが私を怒り
狂わせた。
そして私は曲を描かなくなった。
今まで自分の手柄としてやってきたのに、急に曲ができないのをだんだん上の
上層部の人が疑いはじめ、また、私に矛先が向く。
それの繰り返しで私はオーケストラに行かなくなった。
