「へえ……」
胸元からくぐもって聞こえたその声に、私はふっと手の力を緩めた。
そしてゆっくりと体を離した。
サングラスをかけたままの涼ちゃんはどこを見ているのかわからない。
ただ、ぼうっと前方を見ている。
「これが、マネージャーの仕事、なんだ」
「え?」
「やれば、できるじゃん」
「え? できてるの、かな?」
涼ちゃんは立ち上がって、特急電車が通過していった方を見ている。
もちろん、もう特急電車の姿はない。
「で、毎日そうしてくれるの?」
「え? う、うん。私なんかでよければ。求められればいくらでも」
正直、私にはこれぐらいしかできない。
それ以外は、期待されても困る。
そう言うと、涼ちゃんの口元から「くくくく」と笑いが漏れた。
「いや求めないけど」
実際求められたら困るけど。
返事に困った私の口からは、「はあ」と微妙な声が漏れ、自然と首も落ちる。
「美鈴」
その声に、落ちた首が一瞬で元に戻る。
「……え? 私?」
「他に誰がいるんだよ。
同い年なんだから、別に田村さんじゃなくてもいいだろ?」
「あ、うん。私は、なんでも」
「俺のことも、下の名前でいいから。羽瀬君なんて、呼ばれ慣れてないし」
「あ、そうなんだ。えっと、じゃあ……」
「涼ちゃんで、いいんじゃない?」
「え?」
「寝言で言ってたじゃん。「涼ちゃん」って。
「涼ちゃん、ごめんね」って。何度も何度も」
__え? うそ? 寝言で?
確かに追い詰められていたけど、自分の無意識が怖い。
そして実はこっちの方が呼び慣れているなんて絶対に言えない。
口元を手で覆って空を仰ぐ。
まるでその空から降ってきたように、「ふふっ」と柔らかな笑い声が耳に届く。
声の方を見ると、涼ちゃんはマスクとサングラスを外していた。
そこから、美しい線を描いたような笑い顔が現れる。
夜の闇の中でさえまぶしく見えるその笑顔に、胸がどきんと跳ねた。
キャップをとると、まとまった黒髪をさらさらっと指先でほぐした。
「いいよ、涼ちゃんで。ファンの子からもそう呼ばれてるのは知ってるし。
まあ、涼ちゃんってイメージで売ってないんだけどね」
そう言いながら涼ちゃんは困ったような、どこか恥ずかしそうな顔をして笑う。
確かに、テレビや雑誌の中の涼ちゃんは、クールで大人な、完璧男子。
だけど、この笑顔。
今目の前にあるこの笑顔はどう見ても、「涼ちゃん」だ。
その笑顔に見とれていると、涼ちゃんは外したキャップを私の頭にすぽっとかぶせた。
少し大きめのキャップからは、整髪料のいい匂いがする。
「明日からもよろしく、美鈴」
「え?」と目元を隠すキャップのつばをくいっと持ち上げている間に、涼ちゃんはすでに歩き出していた。
その背中はどんどん小さくなっていく。
__明日からも、よろしく?
「美鈴、何やってんだよ。早く来いよ」
いつまでもその場から動かないでいる私に、涼ちゃんは振り返って言った。
嬉しさで口角がぴくぴくするのをこらえながら、「う、うん」とぎこちない返事をして、私はその背中を追った。


