悲劇の王女は生まれ変わってハピエン主義の人気小説家になりました

 ところがセレナが公爵邸に帰宅すると、珍しく玄関で夫と顔を合わせてしまった。噂に違わぬ美しい夫が、これまた噂通りの表情で自分を見下ろしている。

「おかえり。随分と遅い帰宅だな」

 後ろめたいことがある人間なら鋭い言葉と眼差しを向けられただけで怯むだろう。しかしセレナの外出理由は表向き王妃の話し相手という名誉であるため、咎められるいわれはない。

「ただいま戻りました。夜分に騒がせてしまい、申し訳ありません」

「いや、構わない。俺もこれから外出するつもりだ」

 やはり咎められることはなかった。というより、ラシェルには興味がないのだろう。それよりもセレナはこんな時間から出かけるという夫の方が気になった。

「このような時間に出かけるのですか?」

「明日は――! ああ、いや。明日は大切な用事がある。今夜は戻らない」

 ラシェルは明らかに言葉を濁した。それも見間違いだろうか。僅かに口角が上がった気がする。
 しかしセレナは何食わぬ顔で夫を送り出すことにした。

「かしこまりました。行ってらっしゃいませ――」

 セレナは颯爽と去りゆく背中を見つめる。

(あの旦那様が、僅かに顔を綻ばせて大切な用事と言った。それって……愛人てこと!?)

 仕事なら仕事と言い切る人だ。それを大切な用事と曖昧な表現を使った。
 これがロマンス小説なら自分はそう書く。だから愛人に一票。黒だとセレナの中では見たこともない愛人像ができあがっていた。

(まあ別に愛人がいてもいいけれど)

 夫婦のあれこれが不要なのは有り難いと割り切っている。二人の最低限なやり取りを心配しているのは使用人たちばかりで、今も傍で見守っていた老執事が悲痛な面持ちを浮かべていた。

(ああぁ……この人、旦那様のそっけない態度をいつも心配してくれるんだよね。でも気にしないで下さい! 私、ちっとも気にしてませんから!)

 そう言ったところでさらに心配させてしまうから悪循環だ。

(旦那様には驚かされたけど、早く寝てしまおう。私も明日は大切な用事があるんだから!)

 明日はリタ・グレイシアとして初めてのサイン会が行われる。寝坊などしようものなら一大事だ。
 正体は隠して活動しているが、あまりの人気ぶりにどうしてもサイン会をと頼まれ断り切れず、顔を隠すことを条件に引き受けてしまった。
 初めは大変なことになってしまったと思っていたが、今日新刊を手にした人たちの顔を見ていたら引き受けて良かったと思えたのだ。
 朝から外出するところをラシェルに見つからずにすむのならむしろ有り難いことである。