トイレで顔を洗い、鏡を見る。鏡に映る人間が誰なのか時々分からなくなる。嘘で覆われた俺が本物の俺を消してしまった。いつか本当に一ノ瀬匠真を俺自身が忘れてしまう日がくるかもしれない。そんな未来を想像するとどうしようもなく怖くなる。過去も未来も、考えるだけで壊れてしまいそうだった。

 トイレから戻ると、宮部はテーブルにうつ伏していた。寝てしまったのだろう。俺は向かい側ではなく、眠る宮部の横に腰を下ろした。
 オレンジの灯りは眠気を誘い、俺の視界を狭めていく。このまま二人で寝てしまったら閉店時間に叩き起こされるだろうか。そんなことを考えていると、視界は完全に暗闇になり意識は朦朧としていった。かろうじて起きている脳が近くの声を拾い、俺の中に届けてくれる。
 酩酊するサラリーマンの仕事の愚痴、罰ゲームで盛り上がる大学生。見知らぬ人たちの声が次々と俺の中に入っては溶けていく。

「普通、嘘は悪だよな」

 その声だけは溶けてはくれなかった。そして次の言葉を待つように俺の中を彷徨う。

「でもさぁ、優しい嘘もあるって俺は思うよ。誰かを想ってつく嘘なら、絶対正義だろ」

 体はもう休息状態に入っていた。それに反して活性化し続ける脳が次々と言葉を受け取り、俺の中へと流し込む。

「——浅倉さんは嘘つきなんだよ。でも、浅倉さんがついた嘘は優しさだって、分かってやってよ。お前を守るためだって、分かってやって。——俺さ、全然分かんないよ、お前の過去のことなんて。浅倉さんがなんでお前から離れたのかも、本当は知らない。でもさ、全部お前のためだってことは、わかる」

 声が、震えて聞こえる。俺の意識がそうさせているのだろうか。分からない。暗闇の中で響くその声にどんな感情が乗せられているのか、それを考える思考能力は今の俺にはなかった。

「いつまで続くんだろうな。いつになったら、お前は楽になれる?幸せになれる?誰が……誰ならお前を救える?」

 そこで声は途切れた。正確には俺の意識が完全に現実から遠のいた。そして夢の中へと世界を変えた。



 スーツ姿の琴音が俺の前に立っている。珍しく場所は公園ではなかった。真っ白の背景がどこなのかは分からない。ただそこに俺たち二人だけが存在していた。

「嘘つきは嫌い」

 突然放たれたその言葉で、俺の右足は半歩後ずさった。

「琴音だって、嘘つきだろ」

 静かに足を戻しながら負けじと対抗すると、彼女は困った表情で俺を見た。

「うん、私も嘘つきだよ。でも、私の嘘はきっと匠真を幸せにするって信じてる。——匠真の嘘は誰を幸せにするの?その嘘で誰が救われるの?」

 真っ直ぐな瞳の奥にある感情は怒りか、それとも悲しみか。その強い感情が俺に突き刺さる。夢の中なのにその痛みを感じた。ズキズキと心臓が痛み、それはやがて息苦しさへと変わった。

「匠真は間違ったんだよ。——また間違った選択をした。誰も救えないし、誰も幸せにならない、そういう選択をしたの」



 目が覚めたとき、全身に汗が伝い俺は息を荒げていた。ゆっくりと深呼吸を繰り返し呼吸を整える。最後の一息を吐き終えると、「大丈夫かい?」と心配そうな声がした。

 そこに立っていたばあちゃんの顔を見ると、どうしてか鼻の奥がツンとした。